レンジャーの仕事は狩りではない。ましてや闇から闇へ獲物を狩る暗殺者であるはずがない。それではアサシンだ。
よく間違っている人を見かけるが、レンジャーの仕事は、端的にいうならば『監視』である。
――では何を『監視』するのか?
そんなものは決まっている。
人だ。
町の中にあふれ返る人の群れを監視し、悪さをさせないよう、あるいは何らかの事件が起こらないよう見張り続けるのが仕事である。レンジャーとは監視官のことなのだ。
ガードの仕事と似てはいるが、レンジャーには『武力行使』の権利がない。そのため、ガードとは違い内も外も地味なのがレンジャーなのである。あまり人気のある職業とはいえなかった。
――なのに彼は、どうしてレンジャーになろうと思ったのか?
別になりたくてなった訳ではない。他に選択肢がなかったからだ。ガードになれるほど優秀ではなく、冒険者になれるほどの勇気もない。
ただそれだけなのだ。
その日は生憎の雨だった。それも中途半端な降り方の。
サァァァァ……と響く雨音のノイズ。霧雨になるには勢いが強く、豪雨になるには小粒すぎた、実に半端な雨の日。
(どうせ降るならもっと豪勢にしてくれ)
と思わずイラついてしまう朝のことだった。
港に、奇妙な船が流れ着いたのは。
スカラブレイの南にある港には今、多くの人間が集まっていた。そのどれもが冒険者風の、自己主張が過ぎる装備に身を包んだ若者であった。いわゆる野次馬である。
この雨で機嫌を悪くしていたアルドは、目の痛くなる色とりどりの野次馬の姿を見て、さらに苛立ちを募らせた。
どこからどうやってこんなにも集まってくるのか。そもそも、どこから情報を仕入れてくるのか。果てしなく謎である。
(今日は非番だってのによ)
漂着船の番をしながら、アルドは内心で愚痴る。本当ならこんな雨の中、こんなつまらないことをするはずではなかったのだ。
(ちっ。つまんねぇな)
いつこの仕事を辞めるか。どうやって辞めてやるか。最近特にそれを考えるようになったアルドにとって、職務の間に流れていく時間は苦痛でしかない。
(何だってんだ)
背後で静かに佇む船に目を向ける。
実に奇妙な船だった。
船の形はしているものの、帆はなく、船頭が握る舵もない。荒れ狂う波に受けた痛手が元で損傷し、失くなってしまった……という訳でもなさそうだ。元々初めから付いていなかったとしか思えない構造をしている。
海に浮かんではいるものの、こうなってくるとこれが船なのかも怪しくなってくる。しかし形は明らかに船なのだ。
ふと、アルドの頭にありえない考えが浮かんだ。
帆も舵もない船があるとするならば、それは大海原を渡る手段として造られた物ではなく、むしろ海に何かを捨てるために造られた代物なのではないだろうか。人の手が届く近海に沈めるのではなく、人の目が届かない大海に捨てるために造られた、廃棄されるためだけの箱舟。
だとすれば、この形も納得が行く。
だがそれはありえない。
もし事実がそうならば、この箱舟はもっと脆い物でなくてはならない。荒波を乗り越え、こうして漂着しては意味がないのだ。
しかも、無傷でたどり着くことなど、あってはならないことだ。
ごくりと喉を鳴らす。
これはあくまで想像で、何の根拠もない考えなのだ。
しかしそう自分にいい聞かせるも、一度巡らせてしまった考えは彼の中で真実となる。
もしも――もしもの話だが、これが本当に箱舟だったとするならば、乗せられた物は人々に忌避された物に違いない。それに含まれた魔力、あるいは呪力とでもいうべきか、そういった不可思議な力が原因で、この船が無傷で辿り着いたのだとすれば、
「やばいことになるな……」
我知らず呟いていた。
顔を流れる雨水を拭い、彼は正面に目を向ける。
どこからともなく集まってくる野次馬達。今やその数は一人でどうこう出来るものではなくなってしまっている。
この船が(厳密にはその中身が)危険な代物なら、野次馬を解散させるのが一番である。
アルドは、しかし真面目とはいえないレンジャーであった。自らが率先して皆を動かすよりも、レンジャーギルドの応援、もしくはガードの応援を待つことを選んだ。
その時、不意にカランと乾いた音が響いた。雨音が奏でるノイズと、群衆がたてる聞き取れない会話音、波が打ち寄せる飛沫の音響の中にあって、その音は凛と鳴り響いたのだ。
それはアルドの背後から響いた。
ゆっくりと振り返る。恐る恐るといってもいい。ともかく、彼は慎重に背後を見やった。
船に変化はない。押し引きする波間でたゆたっている。
否、変化はあった。先程までなかった物が船上にあったのだ。
それは小さな小さなガラスの球。雨に濡れながらも鈍い光を放っている。
どこから現れたのか。憶測すらも及ばない。何も存在しなかった船上に、突然現れたガラス球。まるで虚空から現れたかのように。
ぞくりと背筋を悪寒が走る。
「アルド」
唐突に名前を呼ばれ、彼は声もなく体をふるわせた。
「随分人が集まっているな――どうした?」
現れたのはギルドの長、ファドフィクスであった。
「いえ……」
動揺に声が詰まり、アルドはそう口にするのが精一杯だった。
「現状はどうなっている?」
「はっ。現在のところ異常はありません。ただ」
「ただ?」
「ロード・ファドフィクス。先にいっておきますが、俺は正常です。ですから、これからいうことは、事実です」
自分でも信じられないことですが、とアルドは続けた。
「何も存在していなかった船上に、突然不可思議な物が現れました」
簡潔に彼は述べた。自分が感じたことは一切交えなかったが、それは必要ないと考えたからである。彼が抱いたことは全て、彼が想像の上で作り上げたものでしかないからだ。
「不可思議な物?」
ファドフィクスは船上に目をやる。
彼に習って、アルドも同じように目を向けた。
そこには変わらぬ姿でガラス球が転がっている。先程は気付かなかったが、表面にはうっすらと幾何学的な模様が広がっていた。透き通った緑と、透き通った茶色、海が透けて見えているかのように錯覚させる深い青色が混ざり合い、えもいわれぬ趣を醸し出している。
まるで、よく出来た風景画を見ているかのような、
(まさか……そんな)
ある名前がアルドの頭を横切る。それこそありえない物の名称だ。
「何だ、あれは……ガラス球?」
ファドフィクスは船に近付くと、片足を船上に乗せた。船の強度を確認すると、彼は一気に身を移す。
黙して転がるガラス球を手に取ると、ファドフィクスはじっと球体を見つめた。
アルドは内心焦っていた。もし彼の想像が当たっていれば、あれは相当やばい物だ。
しかしわからない。あれは確かにやばい代物だが、船に乗せて流すのはそれ以上にやばい行為だ。
いや、そもそも船はあれを乗せていたのか? あれは、そうだ、突然現れたのだ。元々船にあった物ではないのではないか? ならば、船は何のために……。
考えれば考える程混乱していく。何が正しくて何が間違っているのか。そもそもそれがわからない。
「アルド……これは、これは、どうして」
ファドフィクスが震える声で呟いた。
「ああ、まさか、そんな……陛下、これは、どうしてなのですか」
手にしたガラス球を掲げ、居もしない人間に語りかける。ファドフィクスは、もう正気を失っていたのかもしれない。
「おい、あれ……」
群集から声が上がる。気付いたのだろう。ファドフィクスが持つ、球体の意味を。
野次馬にざわめきが広がった。
次に動揺が走る。
誰かが一歩、群集から離れ近付いて来た。引き寄せられるかのような、亡者の足取りで。
「下がれ!」
アルドはその人間に鋭い言葉を放つ。
「くっそ……ロード・ファドフィクス! 何とかしないと!」
「陛下、ああ、陛下……我々は、どうすればよいのですか……」
しかしファドフィクスは応えない。ガラス球を掲げ、祈るように呟き続けている。
「畜生! どうすりゃいいんだ!」
こちらに向かってこようとする群集に制止を訴えながら、アルドは毒づいた。
自分一人で出来ることなどたかが知れている。にも関わらず、更なる応援は来ない。
どうしてファドフィクスは一人で来たのか。苛立ちをあらわにした目で当の本人を見るも、状況は変わらない。
ファドフィクスは、ただ呆然と球体を見つめている。まるで魅入られるかのように。
一見ガラス球としか思えない球体。その正体は、ファドフィクスの変わりようと呟き、群集に広がった動揺から自ずと知ることが出来た。
確信したといってもいい。
あれはこの世界には存在しないはずの代物だ。
かつてブリタニアに在り、この世界の指導者であった人物。我らが王(ロード・ブリティッシュ)がその身と共に虚空の空間へと持ち去った至宝。宝珠の欠片の集合体。
完全なる〈不滅の宝珠〉そのものであった。
あんな物を前にしてしまっては、一介のレンジャーでしかない自分にはどうしようもない。あのファドフィクスでさえそうなのだ。首都ブリテインにいるお偉方でないと対処することは出来ないだろう。
(どうしろってんだ……)
やがてアルドは、何をするのも嫌になった。自分の手に負えるものではないと、諦めたのだ。
あれは、そこにあるだけで忌避される物。扱い方を間違えば、この世界の存続にすら関わる。
不意に、群衆の中から一人の男が歩み出てきた。
またか、とアルドは思ったが、今度は制止の声さえかけなかった。
もういい。どうでも、いい。
彼ももう限界だったのだ。
しかし男はアルドの前で立ち止まると、あっけらかんとした口調で尋ねた。
「大騒ぎだね。どうしたの?」
「……はぁ?」
何とも間の抜けた質問だった。
何も気付いていないのか、それとも、ただの馬鹿なのか。
「あんた、あれを見てもわかんないのか?」
アルドはやや呆れた口調でそういうと、ファドフィクスが持つ宝珠を指差した。
男は目を細めて宝珠を見やると「ああ」と得心がいった声を出した。
「少し前に流行ってた」
「何だって?」
「知らない?」
男はアルドに視線を戻すと、肩をすくめた。
「詳しいことはライキュームにでも行けばわかると思う」
この男は何をいっているのか。
アルドはますます混乱した。
(流行っていた? ライキューム? 何の話だ、こいつ……馬鹿にしてるのか?)
苛立ちを含んだ厳しい目を男に向ける。
どこにでもいるような男だった。簡素な鎧と、まだ新しい黒いマントを身に着けた、冒険者風の男。
ただ、彼が手にしている鞘入りのカタナだけが異質だった。一見地味にも思える男の姿の中で、このカタナだけが異彩を放っている。
「ああ、そうか」
男は一人納得したように呟いた。これ見よがしに両手を打ってみたりしている。カタナをつかんだままで。
「あんた、レンジャー?」
「あ? ああ、そうだ」
唐突に尋ねられ、アルドは戸惑いながら答えた。
「あの人も?」
男は船上で立ち尽くすファドフィクスを指差す。
「そうだ。だから何だ? 何がいいたい?」
脈絡のない男の言葉の意図がつかめず、アルドは少し語気を荒げる。
「情けないね」
「んだとっ!?」
激情に駆られアルドは男に詰め寄り、その胸倉を――つかもうとしたものの、男の手にあるカタナがちきりと鍔鳴り、鯉口を切る様を見て踏み留まった。
「レンジャーならちゃんと見なきゃ」
刃が下を向くように鞘を握っていた男は、手の中で上下を入れ替え、刃が上を向く形で鞘を握った。
「昔の知り合いがいってた」
動きを止め、押し黙る。
何をする気かと男を凝視していたアルドは、ごくりと喉を鳴らし、一歩退いた。
「『曇りなき眼(まなこ)を持てば、真実は見えてくる』って」
刹那、男はカタナを引き抜いた。
腐ってもレンジャーであるアルドは、光速の動きを見せる斬撃の軌跡をとらえることが出来たが、それは逆に絶望ともいうべき戦慄をアルドに与えることになる。
カタナは天を裂く半円の動きをもって、あろうことか、ファドフィクスが持つ宝珠に向かっていく。
男から宝珠までは距離があるが、それでも届かない程じゃない。
切っ先がかろうじて宝珠に届くと、男は躊躇うことなくそれを裂いた。そして、宝珠の下にあるファドフィクスの手を斬りつける前に、男はカタナを引き戻したのだ。
カタナが手元に戻ってくると、男はその流れのまま、音もなく鞘に刀身を納めた。
見事な技であるといわざるをえない。まさに神技。
だが、
「なん、てことを……」
アルドは違う意味で絶句した。
斬り捨てられた宝珠がファドフィクスの手からこぼれ落ちる。
綺麗に二つに分かたれた宝珠は、その一片を板切れの上に転がし、
その一片を波間に沈めた。
その意味を知ることが出来た者は何人いただろうか? 零ではなかったが、十には満たない。
空白の時間が過ぎる。
十秒……二十秒……。
ぶくりと海面が盛り上がる。
アルドは反射的にそちらに目を向けた。
つい今し方までファドフィクスがいた場所だ。
その姿は、どこにもない。
ざばりと飛沫を上げ、何かが海面から姿を現した。
その正体に、アルドは我が目を疑う。
「ロード・ファドフィクス……?」
顔だけを海面から出したファドフィクスの姿がそこにあった。彼は呆然とした表情で口を開く。
「何が、起こった?」
その問いに、アルドは答えることが出来ない。彼もまだ理解していないのだから。
アルドは少しでも現状を把握しようと船に目を向け、その目に映った光景に愕然とする。
船はなかった。代わりに、黒い鉱石を乗せた板切れが一枚浮かんでいる。
その板切れに近付くと、アルドは目を細め食い入るように鉱石を見つめた。
いつか見たことのある、独特の色をした鉱石。鋭利な切り口を見せ、半球だけで佇むそれは、恐らく先程男が斬りつけた物だろう。
だとすれば、これが宝珠?
「いや、これは……ブラックロックか!」
「そ」
側にいた男がたった一言で肯定した。
アルドは男に顔を向けると、まだ驚きの残る表情で尋ねる。
「あんた、わかってたのか?」
「何人かもわかってたんじゃないかな?」
男は群集に目を向けた。
それにつられて、アルドも野次馬に目を向ける。
突然の変化に混乱の色をあらわにする集団の中で、明らかに落ち着いている人間がぽつりぽつりと目に入る。
全ては幻影だったのだ。ブラックロックが見せた、白昼夢。
それに魅入られた者と、見抜いた者の差がこれだ。慌てふためく者達を、いたって冷静な目で見つめる〈監視者〉達。
「少し前に流行ってた」
男はもう一度その言葉を吐いた。
確かに、そうだ。少し前、この鉱石の名は世界に広まった。この石が生み出す怪奇のことも。
失念していた。
「くそっ……」
思わず拳を強く握りしめる。悔しかったのだ。まんまと踊らされたことが。
「じゃ」
男は短くそういうと身を翻した。彼の動きに合わせて黒いマントが舞い上がる。
「あ、おいっ!」
背を向けて歩いて行く男に声をかけるが、彼は止まらない。
「あんた、誰なんだ!?」
どんどん距離を離していく男の背に、アルドは言葉を投げる。
男は背を向けたまま、片手を振ると、風に乗せて小さな声を返した。
「ナイン」
と、ただ一言。
アルドはそれ以上どうすることも出来ず、遠ざかっていく男を見つめ続けた。
男のマントが潮風に吹かれ踊っている。
その姿に、かすかな違和感を覚えた。
「あ……」
やがて気付く。いつの間にか、雨は上がっていた。
いや、違う。もっと根本的なことだ。
「あいつ、濡れてない、のか?」
雨が上がろうと、降っていたのならば濡れるのが道理。
にも関わらず、男のマントは軽やかにゆらめいている。
「そうか。もうそこから、騙されてたんだな」
力が抜けたように、アルドはその場に腰を下ろした。両手を背に回し、地面を突っ張って体を支える。
頭上には雲一つない青空が広がっていた。
その日は朝から雨など降っていなかったのである。
ファドフィクスが陸に上がるのと、ギルドから応援が駆けつけたのはほぼ同時だった。
応援はいう。
「どれだけ歩いても辿り着けなかった。同じ場所を歩かされてるみたいで」
と。
ファドフィクスはいう。
「情けない。自分が情けないよ、アルド。私達は、見事に騙されていたのだな」
と。
座り込んだままだったアルドはやおら立ち上がると、応援として現れた者達を一瞥し、傍らで肩を落とすファドフィクスを一瞥し、そして男が歩いていった方向に目を向けて口を開いた。
「俺は、正直今までレンジャーの仕事が嫌で、嫌で、たまりませんでした」
目を閉じ、独白するように続ける。
「地味で、退屈で、誰にでも出来るような仕事だと、馬鹿にしてきました」
アルドは小さく頭(かぶり)を振り、自分の言葉を否定する。
「わかっていないのに、わかったつもりだった」
「アルド……」
ファドフィクスは悲愴な声を漏らす。それは、今も自分を責め続けているからか。それとも、アルドが自分を否定しているのだと思ったからか。
どちらも間違っているのに、とアルドは微笑した。
「俺は真実を見抜く目を持ちたい。本物の監視官(レンジャー)になりたい」
「……難題だな」
しかし、とファドフィクスは続ける。
「ならなくてはならんのだな、私は――私達は」
「ロード・ファドフィクス」
アルドはファドフィクスに顔を向けると、姿勢を正し厳かに口を開いた。
「俺は、この仕事に誇りを感じます」
そして彼はにっと笑みを浮かべた。
終わり
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