煌々と闇を照らすはずの月が、いずこかに姿を隠した新月の夜。星々もそれに呼応するかのように沈黙を守っている。
辺りを包むのは真の闇。一寸先も見通せない、暗黒。ともすれば、己の存在すら忘れ去ってしまいそうな深淵。
その中でぽつりと灯った明かりは、平常の夜ならば何の変哲もないものだろうが、この漆黒の中では唯一の安息に思えた。
だからだろうか。彼らは闇の中にいても自己を保ち、それでいて夜に訪れる高揚に身を委ねていた。
男が二人。女が二人。周りにはいくつかのランタンと、立てかけた松明。他に明かりがない故に何よりも強い光明に包まれながらも、他に明かりがない故に闇に押しつぶされそうになっているようにも見える。
辺りに響くのは、押し寄せては引いて行くさざなみと、かすかに聞こえる虫の歌声。
彼らがいるのは砂浜の上。ニュジェルムにある広く開放されたビーチである。時間も遅いためか彼ら以外に人の姿はない。
煌々と海岸を照らすはずの月が、いずこかに姿を消した深淵の夜。星々は何かから隠れるように沈黙を守っている。
どっと笑い声が起こった。彼の隣にいたジャックは手を叩き悶絶にも似た声を上げ、ジャックとは逆側に座っていたルンナは腹を押さえて泣き声にも似た声を出している。向かいにいるアリスンは口元に手をやり静かに、けれども確かな声で笑っていた。
彼――バートはそれを成した自分を内心で誉めつつ、満足しきった顔で手にしていたハープを傍らに置いた。
「バート、それ最高! 一体どこで仕入れてきたんだよ」
バートの肩を無遠慮に叩きながら、ジャックは彼に尋ねる。
「即興さ。題して『フィニガン元市長かくありき』ってとこかな」
「あっはっはっ! ちょ、やめてよ、その題名はないって!」
再び転げ回るように笑いの渦に入っていくルンナ。どうやら彼女のツボをついたらしい。
「すごいね。即興で、これだけのことが出来るんだから。尊敬する」
柔らかな調子でアリスン。いつも真面目な彼女だけに、こんな時でも言うことはそれらしい。
だから彼は、ついアリスンから目をそらしてしまう。少なからず好ましく思っている相手に誉められれば、照れ臭さと嬉しさとその他こもごもからなる感情に戸惑わされるのは若者の常。彼もその一人なのである。
「さ、それでさ、これからどうする?」
バートは辺りを見回して言った。砂浜での遊びを盛り上げる小道具の数々や、料理を盛り付けていた食器。飲み干された酒瓶。宴もたけなわと言った風景である。
流れで言えば、ここで切り上げるのが普通である。しかし、誰もそれを願っていないのは明らかであった。
「そう言えば」
と、ジャックが新たな切り口を開いた。
「こんな話を知ってるか?」
「何? 何?」
ルンナが我先にと食いつく。
「ここはニュジェルムだ。今でこそ何てない観光地になっちゃいるが、この町には昔から物騒な話が多くてな」
「断頭台とか、まだあるしね」
アリスンが口を挟む。少し暗めな表情なのは場の雰囲気のせいだろうか。それとも、あの断頭台が使われる場面を想像してしまったからだろうか。
「ああ、昔は相当ひどかったらしいぜ、この町。今もその名残で北の方は簡素なもんだろ?」
「奴隷街だったってのは、どこかで聞いた気がするよ」
(それが本当か嘘かは知らないけど)
とバートは胸中で付け足した。
「本当だよ」
「あ、そうなんだ」
そう考えると、この町がいくらか不気味に思えてくる。バートは相槌を打ちながら過去に思いを馳せ、嫌な映像が頭に浮かんだところで考えを振り払った。
「それで、その先は?」
ジャックに顔を向けると、彼は怪訝な顔でバートを見ていた。
「ジャック?」
バートが声をかけると、彼ははっとした表情で頭を振る。
「どうしたぁ? もしかして、自分で言ってて怖くなっちゃった?」
ルンナの冷やかしに苦笑を浮かべると、ジャックは咳払いを一つし、話の続きを語り始めた。
別にこの話をしようと思って口を開いた訳ではなかった。ただ、何となく思いついてしまい、気付いた時にはこう言っていたのだ。
「そう言えば、こんな話を知ってるか?」
――と。
偶然だった。そう、ほんの偶然だったのだ。
「何? 何?」
ルンナが食いついてくる。彼女はいつもこんな感じだ。何かを言えば、何らかの反応をする。ジャックはそんな彼女がお気に入りだった。
「ここはニュジェルムだ。今でこそ何てない観光地になっちゃいるが、この町には物騒な話が多くてな」
「断頭台とか、まだあるしね」
アリスンが口を挟む。
「ああ、昔は相当ひどかったらしいぜ、この町。今もその名残で北の方は簡素なもんだろ?」
島の南側に比べれば、北側は実に質素な物である。風雨を凌げればそれが家だ、と言わんばかりの建物ばかりなのだ。
「奴隷街だったってのは、どこかで聞いた気がするよ」
バートが思い出したように言った。どこか頼りない発言だったが。
(ま、そう考えるのが普通だよな。俺も確証はないが)
「あ、そうなんだ」
次いでバートはそう口に出した。
まったく意味のわからない発言だった。
思わずジャックはバートに目を向ける。彼の発言は、流れからしておかしい。何しろ、バートの最初の発言の後、次の言葉が出るまで誰も何も言っていないからだ。
(俺の考えを……読んだ?)
それは馬鹿げた考えである。少しも現実的ではない。どんな魔法を使っても、それは出来ないことなのだ。だから、それはありえない。
「ジャック?」
バートの声に、ジャックは思考の海から引き上げられた。驚きと戸惑いが巡る頭を降り、彼は自分を取り戻す。
「どうしたぁ? もしかして、自分で言ってて怖くなっちゃった?」
ルンナの冷やかしに苦笑を浮かべると、彼は幾分か落ち着きを取り戻した。
(何か聞き逃したんだろう)
そう自分に言い聞かせ、彼は話の続きを口にしだした。
「えー、それでな」
どこまで話しただろうか、と思い出しながら口を開く。
「そうそう、昔はひどかったんだよ、この町。金持ちがやりたい放題ってやつだ」
「何かベタな話だねぇ」
「いいから聞けよ」
ルンナの横槍を制しジャックは続ける。
「気に入らないヤツは斬る、刃向かうヤツは断頭台送り。被害者のほとんどが貧しいヤツばかりでな」
「全員だよ」
「ま、そりゃいいんだ」
細かいことで突っつくな、とジャックは片手を振った。
「そんなことしてりゃ死体はどんどん増えるわな。片付けるのは下っ端の仕事だが、だんだん手が足りなくなっていくんだわ、これが。何しろ、その下っ端もやられちまうんだからな」
親指を下に向け、ジャックは首を狩る仕草をした。
それをルンナも真似てみせる。
ジャックは小さく笑った。
「人手は足りなくなる反面、仕事はどんどん増えていく。最初は丁寧に埋葬してたらしいが、やがてにっちもさっちもいかなくなるんだ」
ジャックは一呼吸置くと、友人達に目をやった。
ルンナは爛々と目を輝かせて話の先を待っている。そう期待されると少しやりづらい。
バートはどこかを一心に見詰めている。何を見ているのかと視線をたどると、彼が見ているのはアリスンだった。
(夢中だな。別の意味で)
アリスンはと言うと、彼女はじっとジャックを見詰めていた。真剣な眼差しで、食い入るように。
(まさか……な)
自分に気があるのか、とジャックは一瞬思ったが、どうもそうでないらしい。
アリスンの目は、ジャックに焦点を絞っていない。どちらかと言えば、彼女はジャックの背後に目をやっているような感じだ。
後ろに誰かいるのかとジャックは背後を一瞥するが、目に入るものは何もなかった。
「どうした、アリスン? 怖くなったか?」
「え、あ、ううん。何でもない。ごめんなさい」
ジャックの問いかけに、アリスンは何かを振り払うように頭を振った。
原因が何なのかはわからなかった。わかりたくもない。
それでも、推測は確信に変わっていく。
提示された答えの欠片は、明らかに一つのものを指している。
すなわち――何が原因なのか――を。
気付かなければよかった、とアリスンは後悔していた。そう言っても仕方がないことを、彼女は誰より理解していたが、押し寄せる波のように徐々に迫ってくる感情が――恐怖が、彼女にそれを認めさせようとしない。
「ああ、昔は相当ひどかったらしいぜ、この町。今もその名残で北の方は簡素なもんだろ?」
ジャックがそう言った辺りからだ。
周囲から音が消えたのは。
静かに流れていた虫達の歌声がぱたりと止み、近くで聞こえていた波の押し引きが、今では遥か遠くからのもののように感じられる。まるで、貝の中から聞こえる潮の幻聴のように。
それだけならまだいい。少量とは言え口にしていたアルコールのせいだと言い訳も出来る。
いつ頃からだろう。ざわざわと、辺りの雰囲気が騒がしくなったのは。人がゆっくりと集まってくるかのように、ざわざわと。
だが辺りに人の姿はない。足音も、息づかいも、話し声も、そこに他の誰かがいる証は一つもない。にも関わらず、気配だけが増えていく。誰もいないのに、誰かがいる感じ。これを何と言い表せばいいだろう。集団の息苦しさ、生温かさ、そんなものだけ感じられる不快感。
それは気のせいだとアリスンは思い込もうとするも、そうすればそうするだけ辺りに意識を向けてしまい、ますますいもしない人間を感じてしまう。口を閉ざし必死になって耐えるしかない。
「気に入らないヤツは斬る、刃向かうヤツは断頭台送り。被害者のほとんどが貧しいヤツばかりでな」
熱のこもったジャックの声が耳に入った瞬間、どこからか
くすっ
と小さく笑う声が聞こえた気がした。
誰かが笑った? バートが? ルンナが? ジャックが?
(違う、誰の声でもなかった)
それに、そんな笑みをこぼす場面でもない。
耳を閉ざそうかと思った。話を止めさせようかと思った。おかしなことが起こりだしたのは、そう、全てジャックの話が始まってからなのだ。
不意に、砂浜を蹴る足音が聞こえた。一歩進むために砂を蹴った足音。これは何よりもはっきりとした物音だった。
それは、ジャックの後ろから聞こえた。
反射的にそちらに目を向ける。目に映るのは、相変わらずの闇。漆黒のビロード。闇を織り込んだ布で辺りを囲ったかのように何も見通せない。
だから、見えないだけでそこに誰かがいるのではないかと思い、アリスンはじっと虚空を見詰め続けた。いつか風で幕がひるがえり、その向こうでいたずらな笑みを浮かべた誰かが立っているのではないかと、ありもしない希望にすがった。
「どうした、アリスン? 怖くなったか」
どきりとした。全く予想していなかったからだ。
「え、あ、ううん。何でもない。ごめんなさい」
本当に何でもない――はずだ、とアリスンは頭を振る。それで何が変わる訳でもなかったが。
「それで、ジャック。続きは?」
ルンナが話の続きをねだる。それを止めさせる気力は、アリスンにはもうなかった。
「ん、ああ、そうだな」
「僕は何となく読めたけどね」
にっと笑みを浮かべてバート。ああ、彼も気付いていないのだ。
「埋葬するのもままならなくなった下っ端は、やがてもっと楽な方法を思いつくんだ。それは……何だと思う?」
数秒の沈黙。どこか得意気なバート。答えを出しあぐねているルンナ。ただ沈黙を守っているジャック。アリスンは、会話に入る余力がない。
沈黙が続けば続く程、空気が張り詰めていく。同時に、どこか甘ったるい風が流れ込んでくる。肌にまとわりつくような、甘い風が。
やがてジャックが口を開いた。
「放り投げたのさ、この」
潮騒の元に手を向けて、
「海に」
何かを放り投げる仕草をする。
それを合図に甘い風が吹き抜ける。今度は人肌の温度をともなって。
「うわっ」
「ひゃっ!」
喫驚の声が上がる。妙な風に驚いた訳ではない。
消えたのだ。全ての明かりが。
「何だ、何だこりゃ」
突然のことに、現状を把握出来ないジャックが誰も答えられない問いかけをする。
「こんなことって……と、とりあえず、明かり明かり」
ばたばたと動く音。声からしてバートだろう。彼は、こんな時でも冷静さを保とうとしている。表面上は。
しかしそれは正しいことだ。急に明かりがなくなれば、世界は一気に闇に沈む。今日のような新月の夜なら尚更だ。
近くにランタンがあるはずだ。あまり動きたくはなかったが、この闇の中にいるよりはいい。アリスンは手探りで文字通り光明を求めた。
じゃり。砂を掻く。
じゃり。砂を掻く。
じゃり。砂を掻く。
ぬらぁ。手が濡れる。
じゃり。砂を掻く。
「う……」
遅れて反応する。今、この手が触れたのは何なのか。考えたくもない。粘つくような――
何かに触れた手を抱え込むようにして体を丸める。もうたくさんだ。
「あっ」
「あったあった」
ルンナとバートの声が重なる。ぱっと周囲が明るくなった。眩しさに目を細める。灯されたのはランタン。それを手にしているのは、向かいにいるバート。
「あ!」
その斜め後ろに、一瞬顔が映った。半分だけ照らされた、誰かの顔。口元だけで笑みを浮かべ、この場にいる全員を見詰めていた。男とも女とも知れない、半分の顔が。
刹那の後にはもう何もなかった。見間違いかもしれない。だが、そう思い込むことを許さない存在感があった。
恨み顔でなければ、悲しみに彩られている訳でもない。ただ冷笑を浮かべていただけの人物。何に対しての笑みなのか?
思考はそこで中断される。
どさっ、と砂の上に何かが落ちる音。それがアリスンの考え――忘我にも似た思考の専念を邪魔したのだ。
「ルンナ!」
ジャックの声に導かれるようにルンナに目を向ける。彼女は、腰を下ろした状態から、まるで眠りに落ちてしまったかのように横に倒れこんでいた。
ジャックとバートは彼女を抱き起こすと、名前を呼びかけながら何度も揺すり起こそうとする。
だが彼女は目覚めない。
二人の話からただ気絶しているだけなのはわかったが、どうしてそうなったかまではわからなかった。
何となく、想像はついたのだが。
「宿に帰ろう。何か、嫌な感じがする」
ランタンを手にし、バートは立ち上がった。
「そ、そうだな。ルンナは俺が連れてくから、さっさと戻ろうぜ」
ルンナを抱え上げ、ジャックはバートの提案に同意する。
「アリスン」
ただ一言そう口にすると、バートはアリスンに手を伸ばした。彼女はやや物怖じしながらその手を取った。
彼女が伸ばした手は、先程濡れた砂浜に触れた手だったのだが、バートの手に触れた時にはあの感触は微塵も残っていなかった。粘り付き、まとわり付いてすぐには乾きそうにない液体だったのだが……。
深く考えようとする頭を止める。
「行こう」
「……うん」
アリスンは小さく頷くと、バートと共に宿に向かって歩き始めた。
翌朝、ルンナは何事もなかったかのように目を覚ました。
昨夜、何があったのか。
目覚めたばかりの彼女にそれを尋ねようとする者はいなかった。何故か、聞く気になれなかったのだ。
彼女自身もそれを話そうとはしなかった。
それから先、彼らに何らかの異変が襲うことはない。変わらぬ日常が待っているだけである。
忘れられない夜と共に、日常が、死ぬまで続く。
ことあるごとに思い出す、心に焼きついた隠月の夜。もしかしたらそれこそが――。
「ひゃっ!」
思わずルンナは情けない声を上げた。まさか、こんなタイミングで全ての明かりが消えるとは思っていなかったからである。
一瞬で世界は暗黒に囚われる。光に慣れた目では、この闇は深過ぎた。何も見て取ることが出来ない。
(これも用意してたってんなら、ちょっと見直したかも)
ルンナは内心ニヤリとしてみせる。偶然全ての明かりが消えたなどとは思わなかった。なぜなら、こんな偶然はありえないからだ。
(にしても、暗過ぎ)
と思った時、少し離れた所で明かりが灯った。闇にぼうっと浮かんだ赤い灯火。彼女の丁度正面。海の辺りである。
(あれ? 誰かいた?)
目を凝らし、じっと明かりを見詰める。
最初は松明かと思った。だが、それにして少し大きい気がする。しばらく見詰めていると、それが人の大きさくらいあることに気が付いた。
人が燃えている? ファイアエレメンタル?
声に出さず苦笑する。火の精霊が海にいるなんて聞いたことがない。それに、あれは燃えていない。
ぼうっと発光しているのは、やはり人だ。人が発光すると言うのも聞いたことはないが、それでもあれは人の形をしているし、安っぽい衣服をまとっている。
そこで気付く。どうも距離が縮まっているらしい。
だからより鮮明にその姿を見て取ることが出来た。
それはやはり人だった。どこにでもいるような男。少し貧相な感じだが、気にするほどでもない。むしろ気にするべきなのは――
全身が、赤く濡れていることだ。
ああ、彼はどうしてあんなにも赤く濡れているのか。そして、どうして明かりもないのにあんなにぬらぬらと輝いているのか。
その独特の照り返しから、全身にしたたる赤が、血だと知ることが出来た。
ブラッドエレメンタル?
いや、違う。あれは血塗れの体をしているが、精霊などではない。
距離はさらに縮まる。
濡れているのは首から下。だらだらと、絶えずこぼれ出すように血が流れていく。
一歩進めば血がしたたり、一歩進めば血が溢れる。
やがて、彼の首に横一文字の赤い線が広がっていく。ゆっくりと、確実に。その線が彼の首を横断すると、彼はにぃっと笑みを浮かべ、そして
「あっ」
自らの頭を海にこぼした。
刹那、すぐ側で眩い明かりが灯された。いきなりのことだったのと、その光量から彼女は目を細める。
そして目にした。明かりに照らされた海を。
深淵に浮かぶ広大な海。それは、どこまでも赤く濁っていた。その中を、何人もの人間が歩いて来る。
誰もがその身を赤く染め、誰もが頭を首から放している。
ジャックが言ったことは外れていた。そうとも、この海にいる者達は皆、断頭台に送られているじゃないか。
(ああ、見て、ニュジェルムの海は、こんなにも――)
頭がくらくらする。なのに視界ははっきりしている。目を離そうと思っても頭が動かない。そうする気が起きない。
(こんなにも、赤く濁っている)
そして彼女は自らの意識を手放した。
赤い海をその目に焼き付けて。
終わり
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