エルフや人間が入り混じり、マラスでは対立しているネクロマンサーとパラディンが雑談に興じる街、ブリテイン。その地下に広がる水路を彼――アッシュは一人歩いていた。
黒い髪に紺色のダブレット、その下から覗く灰色の長袖のシャツ、黒革のズボン。ブリテインで暮らす住人のような軽装で水路を行く彼は、通路の行き詰まりで足を止めると周囲に目をやった。
薄暗く、目ぼしい物は何もないこの水路に、近付く者はまずいない。人の姿、人の気配がないことを確認すると、アッシュは口の中である言葉を呟いた。
刹那、彼の姿が消え失せる。彼が消え失せる直前に呟いた言葉はまるで、ロストランドに転移する者が唱える言葉のようだった。
あらゆる地を踏破した冒険者ですら知らない場所が、この世界には存在する。首都ブリテインの地下水路、そこから更に奥深く潜った先にこの街はあった。誰が造り、誰が名付けたのかは知らないが、この地下街はこう呼ばれている。
非公式な街――アンダーグラウンド、と。
鉄とも石ともとれない壁が天を覆い、そこからじめじめとした空気が流れ込んでくる。その空気にあてられた人間が正気をなくし、建物の壁によりかかって眠り込んでいた。投げ出された足は、もう何人もの人間に踏まれたのだろう。すでに原形をとどめていない。
生きているとも死んでいるともしれない人間の足を、アッシュはこの街で暮らす住人がする通りに踏みつける。靴の裏から骨の硬さのない、ぐにゃりとした感触が伝わってくるが、それは彼に違和感を覚えさせるにはいたらなかった。
建物が密集するせいで、幅の狭くなった通りを進んでいく。すれ違う人間を肩で押しのけながら、アッシュは迷いなく歩き続けた。その途中、一人の老人と目が合う。老人もまた迷いのない足取りでアッシュに近付いていくと、黄色い歯を見せてにやりと笑った。
別に知り合いではない。見覚えはあるが、どこにでもいるような風貌の老人だ。足を止めることなくアッシュは歩き続ける。
老人が肩をそらす。アッシュはそらさない。
いざすれ違おうとした刹那、老人がそらした肩を今度は逆に突き出してきた。その肩から伸びた腕と、その手に握られたダガーとともに。
突然の行動と、短すぎる距離。老人の肩が突き出されたと感じた頃には、ダガーが肉を貫いているだろう。それはずいぶん手馴れた暗殺術のように思えた。逃れられる者は一人としていない。
――地上ならば。
しかし、ここはアンダーグラウンド。地中にあって死中にある街。この程度で死ぬ人間ならば、そもそもこの街に入り込むこともできない。
老人が突き出したダガーは、アッシュのダブレットから髪の毛一本離れた場所で止まっていた。ダガーを握る老人の枯れた手を、その得物ごとアッシュがつかんでいたのだ。
「欲しいのは金かい? それとも死か?」
「か――」
老人の喉から言葉の成り損ないがこぼれた時、その枯れた腕から「ごちゅり」と肉をこすり骨が折れる音が響いた。人体の仕組みを無視し自由に動くことが可能となった老人の腕を、その手がつかんでいるダガーごと老人の胸に向かわせる。そしてそのまま躊躇うことなく、ダガーを老人の胸に差し込んだ。
老人の手を離す。自由になった枯れた腕はだらりと下げられ、その流れのまま老人の体は地面に倒れた。二度、三度、体を震わせ、やがて老人は物言わぬ躯と化した。
人から物に成り下がった老人を一瞥し、アッシュは気だるげな息をつく。それは「無駄な時間を過ごした」というよりは「物足りない」といった感じであった。老人だった物に興味をなくし、アッシュは再び歩き始める。
ある程度進んでいくと、彼の目に粗雑な看板が飛び込んでくる。そこにはこう書かれていた。
アルケミスト・ガーデン、と。
ずいぶん似合わない名前だといつものように軽く笑みを浮かべると、アッシュは看板の下に備えられた扉に手をかける。
錆びた蝶番の音と、扉につけられた錆びた鈴の音。そのすぐ後に奥から錆びれた声が響く。
「欲しいのは金を呼ぶものか? 死を呼ぶものか?」
いやらしく耳に残るざらついた声。それがこの《錬金術師の庭》の店主、ワイズマンのものである。彼は店の奥から上半身裸のまま姿を現すと、戸口に立ったアッシュを見て口元を歪ませる。
「何だ、アッシュか。お早いお帰りで」
仰々しく両手を広げるワイズマン。まるで長年の友を迎えるように。
アッシュは、しかし彼の声には応じず、腰に下げた鞄から布に包まれた歪な球体を取り出すと、ワイズマンに放り投げた。
「サキュバスの心臓だ。それで間違いないよな?」
「んん、さてさて」
もったいつけるように呟き、ワイズマンは軽く受け止めた球体の布を解く。布の中から現れたのは、まだびくりびくりと動く――そう、心臓であった。
「おう、これよ、これ。すまねぇな、つまらねぇこと頼んじまって」
「まったくだ。残りの金は近い内に届けてくれ」
「了解、サー。――時に、アッシュ」
心臓を再び布に包むと、ワイズマンはそれを店の棚に収めた。
「美味い話があるんだが、一口乗ってみねぇか?」
「内容によるな。今回みたいなのは勘弁だ」
嘆息を一つこぼし、肩をすくめる。
「安心しろ、今回はマンハントだ。ま、そのついでに取ってきてもらいたい物もあるがな」
からからと笑うワイズマン。アッシュは戸口から離れると、ワイズマンのそばに歩み寄った。
「それで、相手はどんなだ?」
口の端を歪め、アッシュはそう切り出した。
人知れぬ地にある、人寄らぬ古城。その地下にロスタールはいた。錬金術師である彼は無から有を生み出すことを求め、同時に死霊魔術師である彼は有限を無限にすることを求め、日々研究を重ねている。つまり彼は、永遠を欲しているのだ。
そう、永遠不滅の肉体と魂を。
肉体にはいずれ限界が来る。修復すれば済む話だが、その時は魂が無防備になる。もしも魂を滅ぼされたなら、ロスタールという存在は消滅する。それを何としても防ぐため、彼は日々永遠の子らを解体し、不滅の残りカスを集めているのだった。
永遠の子ら。かつて世界は永遠の支配下にあった。永遠――それを不滅と置き換えれば、このブリタニアは一時的にとはいえその影響を受けていたのだ。そして、そこに暮らす人々もまた同じように。
どれだけ集めれば完成するのか。気の遠くなるような作業であった。これまで行った実験はどれもが失敗であり、新たな生命や無限にも思える肉体を作り出すことはできたものの、完成品とはほど遠かった。
彼の研究室に散らばる、数限りない、残骸。片付けることもせず、ロスタールは次々と実験を繰り返した。
結局、彼は死が恐ろしかったのである。
ワイズマンから聞いた場所に、その城は確かに存在した。かなり古くからその場所に建てられていたのか、城は所々で崩れている。自然が城を取り込もうと長い蔦が絡み付いている場所もあれば、風雨の地道な努力に耐え切れず朽ちている部分もあった。雰囲気だけは、それらしく整っている。
だが、中身がそれに見合うかどうかはわからない。アッシュは嘆息する。現に、城の周囲をさまよっていたアンデッドはどれも見せかけだけで、満足いくような歯応えがなかったからだ。
正面に備えられた巨大な城門に手をかけ、ゆっくりと押し開く。ぎしり、ぎしりと今にも崩れそうな音を立て、門は来訪者を迎え入れた。
その先に広がっていたのは、腐れた庭だった。地面はどこもかしこも雑草が生い茂り、植えられていたであろう得体の知れない植物は、ことごとくしおれ、異様な臭いを醸し出している。
通常であれば眉をひそめ、顔を背けたくなる異臭の中を、しかしアッシュは変わらぬ調子で歩き始めた。嘔吐してもおかしくない臭いの中をだ。彼にとってこの激臭は、アンダーグラウンドに漂う臭いに比べ、大したことがないものなのかもしれない。
庭の中央まで進んだ頃、不意に辺りの雑草がざわめく。吹き抜ける風が、背の高い草をなぎ倒すような規則正しいものではない。生物が蠢く拍子に揺さぶられる、そんなざわめき方であった。
アッシュは、ふと足を止めようか迷う。無視してしまってもよかった。ここまでの相手はどれも拍子抜けするものばかりで、簡単な話、退屈だったのだ。現れるのは例外なくアンデッドで、肉を裂く喜びも、悲鳴を聞く愉悦も、死中で感じる高揚もありはしなかった。
だが、と彼は思う。
(今度は違うかもしれない、か)
逡巡した結果、ようやく彼は足を止めた。庭の中程から少し進んだ場所で。
もったいぶるように雑草を揺らし続け、ようやく現れたのは土塊(つちくれ)を身に付けたスケルトンであった。数は四体。身を寄せ合うように集い、ゆらゆらと儚げに佇んでいる。だが、どこか普通のものとは違った。
「へぇ」
笑みを浮かべる。珍しいものを見た驚喜から。
そのスケルトンの背には、どれも悪魔の翼が生えていた。骨で出来ていたが、その形状は明らかに悪魔のものである。それだけではない。スケルトンの頭からは長い髪が生え、本来なら空洞であるはずの眼孔に白く濁った眼球が入っている。ゾンビの腐食が進んだ果てのスケルトンか、あるいはスケルタルデーモンのようであった。
「永遠を生きる死に損ないか。それとも」
腰の鞄からダガーを一本取り出し、手の中で弄びながら続ける。
「人間と悪魔の合いの子、その成れの果てか?」
見れば、スケルトンの背から生えた翼は、その根元で本体に無理矢理つなげられているようであった。翼としての機能はないだろう。ただの重り、飾りだ。
アッシュの言葉に反応して、スケルトンが口を大きく開く。四体全てが同じように口蓋を開いた。まるで叫び声を上げているように。
「ああ、いい声だ。さて、お前達が欲しいのは、何だ?」
それが合図であった。
先に動いたのは、スケルトン。二体が同時に、一体がそれに遅れて、もう一体は更に遅れて。骨の悪魔もどきは何も得物を手にしていなかったが、突き出された手の先は尖り、まるでパイクのようであった。それを正面から受ければ、容易く貫かれる。そう思わせる鋭さがあった。
決して速くはない骨どもであったが、だからといって鈍いわけでもない。それに加え、四体が時間差で襲いかかってくるのだ。これが普通のスケルトンであれば、だからどうということもないだろうが、今対峙しているのは得体の知れないスケルトンである。慎重でなければならないが、慎重であればあるほど動く機会を逃し、遂には押し負けてしまうだろう。
ならば取るべき手は一つ。アッシュは迫るスケルトンに同じような調子で向かった。速くなく、遅くなく。駆けることこそしなかったが、その足取りは幽玄な舞のようで捉え所がなかった。
先陣をきった二体のスケルトンとの距離が詰まる。骨の手が届く距離にアッシュが踏み込むと、彼が動くよりも早く一体の骨が鋭い指の槍を突き出した。それは先程までの動きが嘘に思えるほど早く、人の目が捉えられるのは一直線に走る白い残影のみ。
アッシュはそれをかわさなかった。身をよじることもせず、ダガーで受けることもしない。彼はただ、空いた手の肘で残影を上から潰しにかかる。それと同時に同じ側の膝を突き上げた。乾いた音をたて、スケルトンの腕が肘と膝に潰され弾ける。
それは絶妙なタイミングであった。偶然――いや、先を読んでいたからこその技だ。骨の腕はアッシュのダブレットから紙一重の場所で失墜する。
だが、命亡き者にとって、腕の一本など惜しくはない。そしてもし、この死者たちに知恵があったとしたら、彼のこの行動は失敗でしかなかった。
片膝を上げているため、次の行動に移るには(一瞬とはいえ)時間を要するアッシュ。身動きがとれない彼に、もう一体のスケルトンが腕を伸ばす。それも、彼の最大の隙である空いた手の側から。
スケルトンが狙った場所は、アッシュが振り下ろした腕の付け根。すなわち肩である。肩を潰されればその腕は使えなくなり、仮にアッシュが次の手に出たとしても、その戦力は激減する。
だが、スケルトンはそれ以上を狙っていたのだ。肩を潰すだけでなく、その先にまで角ばった手を潜り込ませ、アッシュを絶命させる気なのだ。そうとしか思えない速度と重さをまとった閃光がアッシュに走る。
大気を引き裂く音が彼の耳に届くわずか前、アッシュは次の手にようやく出た。手遅れという言葉がよく似合う彼の次の手は、文字通り手を出すことであった。
スケルトンの骨の槍を閃光とするのなら、アッシュの一動作は転移であった。突き下ろした肘の先、拳を横に振るった彼は、その動き始めに残像を残し、薙ぐ動作を省いて骨の閃光に拳の裏を打ち当てた。わずかに軌道のずれた骨の槍は、アッシュに致命傷を与えるにはいたらなかったものの、彼のダブレットとその下の肉を裂き中空に走っていく。
焼けるような鋭い痛みを感じた頃には、アッシュはすでに次の手に出ていた。拳を振るった反動を活かし、彼はそのまま流れるように逆の手に握ったダガーを走らせる。
銀の軌跡を残し空を走るダガーは、緩やかに流れるせせらぎのように優雅であった。だがその身に備えた凶器としての性質は少しも失っておらず、ダガーはスケルトンの首の骨、そのつなぎ目にそっと入り込むと、容赦なく頭骨を解放する。先に腕を砕いたスケルトンの頭を、次にアッシュに傷を負わせたスケルトンの頭を。
軽やかに落ちていくスケルトンの頭骨が地面に転がった頃には、アッシュは体勢を整え次の二体を待っていた。
しかし、遅れて続くはずだった二体のスケルトンは、何故かその場で足を止めている。
「ん、何だ?」
怪訝に思い、呟く。片手を腰に当て、アッシュは待った。こちらからしかけてもよかったが、それでは面白くない。今のやりとりでわかったが、この骨どもはぎりぎりまで待った方が楽しめるのだ。こちらから攻めれば、普通のスケルトンと変わらない。
だがいつまで経っても動こうとしないスケルトンに、アッシュは次第に苛立ちを募らせていった。
「興醒めだね。永遠を生きる分際でそんなに怖いのかね」
「怖かろうて。私がおるのだからな」
不意に、アッシュの背後から声が届く。その声に導かれるよう、彼は肩越しに背後を見やった。いつの間に現れたのだろう。城内に通じるであろう扉のそばに、黒いローブのいかにもな老人が立っていた。
「覗き見とは趣味が悪い」
「人の城で無法に興じる者よりはましだと思うがな」
体を老人に向け、アッシュは手のダガーをひらひらと振る。
「つまりこの骨どもは、自分をこんな目に合わせたあんたがいるから動けなくなってると?」
「いかにも。しかし驚いた」
老人は背からクレセントブレードを取り出すと、それを片手に一歩踏み出した。
「よもや、この者たちが蘇るとは。そこに何か、答えに近しいものがあるやもしれん」
老人の言葉を鼻で笑うアッシュ。
「どうでもいいことだ。で、あんたがロスタールだな」
そういうと、彼は老人――ロスタールにダガーを向ける。
「俺が欲しいのは、あんたの研究成果だよ、ロスタール」
「欲深い男だ。暴れるだけでは足りんかね?」
手の中でクレセントブレードを回し、ロスタールは両手でそれを構えた。
「誰も無料(ただ)で、とはいってないさ。ロスタール。お前が欲しいものは何だ? 金か、死か?」
アッシュの言葉に、わずかな笑みを返すロスタール。老人は嘲笑うような視線をアッシュに向けたる。
「私が欲しいのは《永遠》だ」
「そうかい。なら、くれてやろう」
ダガーを手の中で回し、逆手で柄を握る。
「《死(えいえん)》をな」
その言葉と同時に地を蹴るアッシュ。一足でロスタールとの距離の半分を詰める。
ロスタールは口の中で何かを呟くと、クレセントブレードを握る手を腰から背に隠した。横に寝かされた刃が、ロスタールの背後で出番を待っている。
老人の間合いに入れば、クレセントブレードの一閃がアッシュを待っているだろう。ロスタールの体勢は、そういうことなのだ。全ての無駄を省き、一動作で斬撃を繰り出せる構え。
それがわかっていてなお、アッシュは足を進めた。それどころか、二足目で更に速度を上げる。低く滑空するようにロスタールとの距離を詰め、その間(かん)にダガーを持つ手を下げる。左半身を前にし、ダガーがある右半身を後方にずらしたのは、ロスタールと同じ理由からだ。すなわち、一動作で斬撃を繰り出すため。
アッシュがロスタールの間合いに入った瞬間、轟音をともなってクレセントブレードが振るわれる。一直線に、アッシュの首を狙って。
アッシュは、しかし体勢を低くし、迫る刃を空いた手で少し持ち上げてやることで斬撃をしのいだ。頭上を通り過ぎていくクレセントブレードの風切り音を堪能しながら彼は、低い位置で狙える箇所にダガーを振るう。ロスタールの足首に。
しかし見よ! 空を切り裂くだけにとどまるかに思えたロスタールの刃は、その途中で不自然な軌道と勢いを持って反転し、再びアッシュに襲いかかる。今度は彼の背を目がけて、刃が舞い戻ってきたのだ。
アッシュがロスタールの足首を切り裂くのと、ロスタールがアッシュの背を撫で斬るのはほぼ同時であった。ロスタールは鮮血がこぼれる足首からくずれるように膝をつき、アッシュは背中を大きく裂かれ、真紅の血を撒き散らしながらロストールの脇を通り過ぎていった。
速度を殺し立ち止まった時、アッシュはがっくりと片膝をついた。決して小さくはない傷と、そこからこぼれる大量の血が彼から体力を奪ったのだ。
否。確かにアッシュが受けた傷も要因の一つではあるだろうが、それだけではない。彼は足首からも血を流していた。ロスタールと同じように。それが原因で、彼は膝をついたのだ。
「よくやる――といいたいが、詰めが甘かったな。小僧」
ロスタールは再び口の中で呟くと、その言葉に招かれた力が彼の足首に集った。そして、斬撃など受けなかったかのように、ロスタールの足首から傷が消え失せる。そこから流れ出した鮮血も!
ロスタールはゆっくりと立ち上がると、背後で膝をつくアッシュに体を向けた。再びクレセントブレードを構えると、一歩足を進める。
ロスタールはネクロマンサーである。ネクロマンサーの術式の中には、術者が受けた傷を相手にも同じように与えるものがあった。
ブラッドオース――血の誓約である。
アッシュは、しかし小さく笑った。愉快であったのだ。死中で感じる高揚。これこそ、生の喜び。滅多に味わうことができない、至高の悦楽だ。
足首の傷を叩くように触ると、彼はバランスを保ちながらゆっくりと立ち上がった。
「来た甲斐があった。訪れた意味があった。ロスタール、礼をいう」
「なに、構わんさ。私も研究材料が増えてありがたい」
同時に一息つく。そこに込められたものは形こそ違えど、この戦いの終わりを意味していた。そして、
『さて』
同時に呟く。そしてアッシュはいつの間に握りしめていたのか、手の中から白い球体をこぼすと体の向きを変えた。
地面に触れた球体は、その瞬間激しく破裂し、瞬く間に周囲を灰白色の煙で塗りつぶす。アッシュの姿は煙の中に掻き消えた。
瞬時に反応できず、一拍遅れてロスタールはクレセントブレードで煙を薙いだ。しかし、アッシュがいたであろう場所に到達しても、刃は何の手応えも返さず、ただ宙を斬るばかり。
「小癪な!」
ロスタールが三度言葉を呟く。力の言葉を。だがその詠唱の途中で、白煙の中から飛び出してきたものがあった。銀色の残影を見せ、空気を切り裂く甲高い音ともに飛来するもの。
ダガーである。
ロスタールは詠唱を破棄し、真っ直ぐに伸びるダガーの射線上から体を避ける。いかに視界を塞ごうと、いかに不意を突こうと、この程度で覆せる相手ではないことはアッシュもわかっているだろうに。だからロスタールは、ただ純粋に憤った。
「苦し紛れの投擲か! 小賢し――!?」
だが、ロスタールの言葉は、またしても中断される。まるで空気を得ようと口を開け閉めするように、声にならない言葉を吐き、ロスタールは全ての動きを止めた。
ロスタールのすぐ隣に、彼がいた。ロスタールの背中に手を伸ばし、静かに佇むアッシュ。彼の手の中には、今まで空を舞っていたダガーがあった。それを、ロスタールの背に突きたてている。いや、そんな生易しいものではない。
ダガーはその刃だけにとどまらず、柄も、それを握りしめる彼の手までも、ロスタールの背の中に差し込まれていたのだ。ダガーの先は、老人の心臓にまで届いている。
「一つの場所にとどまるのもいいが、少しは世界も知っておかないとな」
がたり、とロスタールの手を離れたクレセントブレードが転がる。
「知らないだろ? シャドウジャンプってのを」
姿を隠した状態から、離れた場所に瞬時に移動する技、シャドウジャンプ。それを持ってアッシュは、中空を走るダガーに追いつき、それを再び手中に収めたのだ。
がくがくと四肢を痙攣させるロスタール。アッシュは満足げな笑みを浮かべると、温かな肉体に差し込んだ手とダガーを引き抜いた。
どうっ、と倒れるロスタールを一瞥し、アッシュは呟く。
「永遠を行きな、ロスタール」
アンダーグラウンド、アルケミスト・ガーデン内。カウンターに並べられた戦利品を眺めながら、ワイズマンは顎をさする。
「なぁ、アッシュよぉ」
大袈裟に手の平全体で戦利品を指すと、ワイズマンはアッシュに目を向けた。
「こんな物しかなかったってのはないだろ、さすがに」
店の壁際で背をもたれさせ、聞いているのかいないのかといった様子のアッシュは、ワイズマンを一瞥するとまた興味をなくしたように目を伏せた。
「地下室を全部見たが、それだけだった。後は骨と皮ぐらいしかなかったよ」
「くそったれめ。ガセだったか」
荒々しくカウンターに手をつき、毒づくワイズマン。アッシュはそんな彼に再び目を向けた。
「無価値なのか? 俺にはよくわからんが」
「無価値も無価値! ゴミだぜ、こりゃ。ネクロマンサーにしてアルケミスト。五〇〇年を生きる化物だって聞いてたから期待したんだがなぁ」
今度は頭を抱えるワイズマン。ころころと動きを変える彼を見ていれば、しばらく退屈しなさそうに思える。
「どれもこれも何をしたいがために作ったのかわからんな。金になる薬にもならねぇときたもんだ」
嘆息一つ。ワイズマンはアッシュに目を向けると、珍しく目だけで頭を下げた。
「すまんなアッシュ。無駄骨だ」
しかしアッシュは頭(かぶり)を振り、小さく笑む。
「全部が全部ガセだったわけじゃないさ。俺にとっては有意義だった」
「そうか。そりゃよかった」
「ああ。また何かいい話があったら教えてくれ」
そういうとアッシュは壁際から離れ、外に通じる扉に手をかける。
「了解、サー。また頼むぜ」
背後からかかる声に、アッシュは片手を上げて応えるのだった。
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