熱く滾(たぎ)った日々が去り、活き活きと茂っていた緑が色鮮やかなものに変わる。身を刺すような陽光も今ではその攻撃性を消し、心地よい温もりを届ける程度になっていた。季節はすっかり秋である。この緩やかな時は、しかし長続きせず、じきに冬が訪れるだろう。
シコードは冬が好きだった。はらはらと舞い落ち、地に落ちて溶けていく小雪の刹那さ。身を切るような冷風と、うっすらと姿を現す白い吐息の儚さ。轍(わだち)も草地も全て雪化粧を施され、淡い陽光をきらきらと反射させる幻想さ。そして何よりも、
「かぁーっ!」
冬は酒が美味いからだ。夏の暑さを誤魔化すために飲む酒もいいが、やはり冬に飲む冷たく澄んだ酒が一番である。
空になったカップをテーブルに置き、彼は傍らに置いてあったエール(穀物酒:ビールの一種)の瓶を手繰り寄せる。まだ半分程残った瓶の中身をカップに注ぎ、一口呷(あお)ると喉越しを楽しんだ。
「くぅーっ!」
溜め息と同時に声を出す。これがエールの正しい楽しみ方なのだと、シコードは常々思っていたからだ。信念と言ってしまってもいい。
宵の口を少し過ぎたあたり。シコードは自宅のリビング(兼ダイニング)で一人、酒を楽しんでいた。この後はもう寝るだけと言ったラフな格好でぼさぼさの茶髪を揺らし、アルコールから来る陽気さに身を任せている。これが彼の一日の終わりを迎える儀式なのだ。これだけで生きている価値があるとさえ思っている。
エールを一瓶飲み干すと、だらしなく下がった瞳をこすり、彼は一度大きな欠伸をこぼす。胸の奥から湧きあがるこの倦怠感もまた、たまらなく愛しい。
椅子から立ち上がり水を張った樽にカップを放り込むと、彼は部屋の扉を開け短い廊下に出た。寝室は二階にある。二階が丸々寝室なのだ。小さな建物だが、贅沢な造りである。
急な階段を上り寝室に足を踏み入れ、彼はそのまま真っ直ぐベッドに向かった。やや皺の寄ったシーツに潜り込み、側で煌々と明かりを放っていたランプを消す。暗闇に閉ざされた部屋の中で、ゆっくりと目蓋を下ろした。
その時だった。
ビンッ! カロロンローン。ビンッ! そんな耳をつんざく不快音が聞こえたのは。
眉根を寄せ、シコードはしかし聞こえない振りをする。これから眠りに落ちるのだ。心地よい夢が待つ世界に旅立つのだ。だから、そんなものに構っている暇はない。
だが“そんなものに構っている暇はない”のは向こうも同じらしい。不快音は一向に鳴り止む気配がない。ひどく不自然なタイミングで不調和な音色――音色と言うのもおこがましい――をありえない大きさでたてる。耳を閉ざさなければ嫌が応にも聞こえてしまう程の音量だった。聞こえない振りを続けるのは、精神の鍛錬か何かに思えてくる。
(くそっ! 何だってそんなところでそんな音程なんだ!)
しかしシコードは別の意味で憤っていた。耳を通して知ることができた音の正体は、恐らくハープ。誰かがこんな時間にハープを奏でているのだ。だが、やけに高い音色と妙なリズムから、それは奏でていると言うよりも叩いているに近かった。
(あああぁ、そんな弾き方したら、切れる! 弦が切れる!)
ビンッ! ビビンッ! バツン! 断続的に聞こえた音の最後は、それまでとは違うものだった。断言しよう。弦が切れたのだ。
「だぁぁっ! 言わんこっちゃねぇっ!」
最後に耳に届いた音と同時に、シコードの堪忍袋の緒も切れた。彼はシーツを跳ね除け上半身を起こすと、そこに誰もいないにも関わらず叱責の声を上げる。側に置いてあったランタンに明かりを灯し、それを手にして階下に向かった。
(毎夜毎夜、人の睡眠を妨害しやがって。もうこれで四日目だぞ。嫌がらせか? 嫌がらせなのか? 俺が何かしたか!)
胸の内でぶつくさ呟きながら、彼は短い廊下を渡り屋外に出た。一瞬、夜の静寂(しじま)が彼を包もうとするが、それを遮るように再びハープの音が鳴り響く。その直後、数本の弦が切れる音が彼の耳に届いた。
瞳を閉じ、それを片手で覆う。わずかに肩が震え、彼は笑むように「くっ」ともらした。
「また、やりやがったな」
怒気をはらんだ呟き。彼の我慢は今、臨界点を越えたのだった。
音の出所は自宅の隣に建つ、やや大きな建物。シコードは脇目も振らず隣家の敷地内に入ると、施錠された扉を乱暴に殴りつけた。一応ノックのつもりだったのだが、感情が先走り、まるで借金の取立てに来た暴漢のようになってしまっている。
「おい、こらっ! その音を止めろ! てめぇ、どこのどちら様だか知らねぇがな、さっさと出てきて俺に詫びやがれ!」
まだ酔いの残っている頭に怒りが足され、シコードは脈絡のない言葉をわめき散らす。その間も絶えず扉を叩き続け、ハープの騒音に勝る騒音を響かせていた。
「毎日毎日その下手くそを聞かされる身にもなれ! いい加減にしねぇと、てめぇもその弦のように切っちまうぞ!」
しかし建物の中から返事はない。ハープの音は止んでいたので、彼の来訪には気付いているはずだ。しかし一向に姿を現そうとしない家主に、シコードはますます苛立ちを募らせていく。
「てめぇこの野郎。都合が悪くなったらだんまりか! 黙るのはもっと早くにぶぉあ!?」
唐突に扉が開いた。外側に。扉に肉薄していたシコードは急に開いた扉に対応できず、そのまま顔面をぶつけたのだ。もんどりうって倒れると、彼はランタンを放り出し両手で顔を押さえた。
呻き声を上げながら、地面を転げまわる。鼻の奥が焼けるように熱い。思わず涙がこぼれた。
「やかましい。何者だ?」
頭上から響いた声は、凛とした気品があった――ような気がしたが、今の彼はそれどころではない。悶える。ただひたすらに悶える。酔いも眠気も覚めるような鈍痛が顔の奥か全体に広がっていく。
「答えろ」
と頭上から再度声がかかる。それは女の声だった――のだが、やはりそれどころではない。少しでも痛みを引かせようと、シコードは顔を(特に鼻を)さすり、時にはつねり、この苦しみから逃れようと抗い続けた。
やがて痛みが薄れ始めると、彼は静かに呼吸を整え始める。徐々に引いていく痛みに内心安堵しながら、シコードは緩慢な動作で立ち上がった。
「……てめぇ」
痛みが引いた後に湧き上がったものは、純粋な怒り。彼はただでさえ鋭い目をさらに吊り上げ、建物から現れた人物に目を向けた。
そこにいたのはシコードに劣らぬ鋭い目つきをした女だった。寝巻きなのだろうか、落ち着いた藍色のドレスに身を包み、両手を腰に当て彼を睨んでいる。長い金髪、青い瞳。整った顔立ちは美人と言う言葉以外を受け付けない。それにしても、色々な意味でやけに大きな女だ。シコードよりも背が高く、出るところは豊かに出ている。そのくせ引っ込んでいる部分はちゃんと引っ込んでいるのだから侮れない。馬鹿みたいにスタイルのいい女である。略して馬鹿女だ。
この場所に長いこと住んでいたシコードだが、隣人を見るのはこれが初めてだった。もし彼が冷静さを保っていたのなら、この理想の美人像を人間にしたような美貌と類稀なる身体を持つ女に見惚れていたかもしれない。だが残念ながら今の彼は、自分を見失うほどに怒り狂っていた。
「とりあえずこれだけは言っておく」
女に指を突きつけ、彼は一息吸い言葉を続けた。
「隣に住むシコードだ! 初めまして!」
「……え、あ、ああ。初めまして」
それまでの険しい顔はどこへやら、女はきょとんとした表情を浮かべるとシコードにつられるように挨拶を口にする。
「会って早々悪いが、あの下手くそなハープは何の真似だ!」
うっ、と女が呻く。彼女のこめかみが目の端を連れ、数回引きつった。
「俺だってなぁ、昨日までは我慢したんだよ。わかるか? これから睡眠を楽しもうとしてた時にむりやり駄音を聞かされるあの不快感が。それをなぁ、俺は昨日まで我慢したんだよ。がんばったんだぞ」
突き出していた手を引っ込め、彼は腕を組むと感慨深そうに数度頷いた。
「だがな!」
両目を限界まで見開き彼女を捉える。彼の目は完全に血走っており、もしその眼(まなこ)を覗いてしまったのなら間違いなく気圧されるだろう迫力があった。
「てめぇ、今日は弦を切りやがっただろう? 俺はそれが許せねぇ。一体、ど・ん・な・弾・き・か・た・を・しやがった!」
そう口にすると同時にシコードは女に躍りかかった。組んでいた腕を解き、左手を女に伸ばし右手を大きく引く。女が間合いに入った瞬間、彼の右手は光のごとき速さを持って彼女を貫くだろう。そこには一欠けらの加減もない。それだけシコードは女の行為が許せなかったのだ。
シコードが伸ばした左手が女に迫った時、しかしその手を取られ躍りかかった勢いそのままに彼は彼女の後方に投げ飛ばされる。女の背後にあった扉に打ち付けられ、シコードは呻き声と共に息を吐いた。
「あふぅ」
実に間の抜けた声であった。
「あ、すまん、つい。急に飛びかかってくるから」
ぼそぼそと女が呟く。だがシコードの耳にその声は届かなかった。強(したた)かに背を打ち付けたせいで、彼は一種の呼吸困難に陥っていたのだ。ぜぇぜぇ、と喉を鳴らし地面に伏せ悶える。
(こんちくしょう……)
何も文句を言えず、彼は胸の内で毒づく。それが今の彼にできる精一杯であった。
シコードの家と似たような造りのリビングに通され、彼は部屋の中央にでんと構えたテーブルに着いていた。目の前にはワインの注がれたカップがあり、その向こうに金髪の女が座っている。彼女の名はアメリア。生粋の戦士らしい。
「じゃあ聞かせてもらおうかい。何だってあんた、こんな時間にあんな下手くそな演奏をしてたんだ?」
下手くそを強調して口にするシコード。落ち着きを取り戻したとは言っても、やはり腹に据えかねるものはあった。
「あ、ああ。本当にすまなかった」
顔を曇らせ頭を下げるアメリア。彼女が言うにはこうだ。
とある戦士のギルドに所属しているアメリアは、その腕前と美貌から一団の柱とも言うべき人物になっていた。向かうところ敵なし、順風満帆に思えた彼女の生活は、しかし常に物足りなさと共にあったと言う。その正体が何なのか見当もつかず、小さいながらも重苦しいわだかまりに苛まれ、悶々とした日々を過ごしていたのだ。だが、そんな彼女にある日転機が訪れる。それは仲間の些細な一言だった。曰く、
「お前はちっとも女らしくないな」
――と。その時彼女の内心を襲った衝撃は計り知れない。確かに、アメリアは口調も仕草も淑やかな部類とは違った。だが、それでも彼女は女なのだ。甘い恋を待ち望む心もあれば、可愛らしく着飾ってみたいと言う願望もある。女性らしく、そうとも、いたって平凡な女性らしく振舞ってみたいと言うささやかな願いが、彼女の心の奥にはあったのだ。それが、彼女のわだかまりの正体だった。アメリアは、心が望む生き方とは別の道を歩んでしまっていたのだ。胸の奥が囁く静かな願いこそが、彼女を苦しめていたのだ。
「私だって女だ! ならばこれからは、女らしく生きてやろう!」
売り言葉に買い言葉を体現するように、彼女は反論していた。やけに男らしく。その言葉を発した時、周りにいた仲間は異なる言葉で同じ意味の声を彼女に投げかける。
「無理だ」
と。
そこから先は簡単な話だ。その場にいた全員と盛大な口喧嘩を繰り広げた後、彼女はギルドハウスを飛び出し『女らしさとは何か』に悩み続けたと。そうしてたどり着いた答えが『音楽』だったのだ。
そこまでを聞き終えると、シコードはテーブルに肘を着き、眉間を押さえ黙りこくった。どうしてそこで音楽を嗜もうと思ったのか、彼には理解できなかったのである。普通は料理や裁縫だと思うのだが、しかし彼はそれを口にせず、対面に座るアメリアに目を向けた。
黙って座っていれば実にいい女である。流れるように伸びた金色の髪は、それだけで男を誘惑する。切れ長の目にほっそりとした鼻、意志の強さを感じさせるきつく結ばれた唇は、しかしギャップを感じさせる豊かさと、うっすらと濡れた妖艶さをたたえている。神の芸術とも言える美貌を備えているのだから、それ以上を望むのは我侭ではないだろうか。
シコードは軽く溜め息をついた。彼女に見惚れてのものではない。何度か聞いてきた彼女の言動を思い出したからだ。
何かを話し始めた途端、アメリアの美しさは鳴りを潜め、代わりに勇ましさが姿を現す。それはもう男勝りなどと言う生易しいものではない。戦士が目指す理想の戦士像そのものだった。違う意味で男が憧れる姿だ。そこに『女らしい』と言う言葉が入り込む余地はない。
「無理だな」
ぽつりとシコードは呟く。無意識の内に口をついて出た言葉であった。
「何だと!」
テーブルを両手で叩きつけ、その勢いを持って立ち上がるアメリア。その姿はやはり勇ましかった。まるで気概に溢れる戦士か、あるいは傍若無人に振舞う海賊と言った感じである。
「それだ」
アメリアに指を向ける。それにつられ、彼女は自分自身を見下ろした。
「そのザマでどうやって女らしくなろうってんだ。どっからどう見ても男らしいだろうが」
むっ、と言葉に詰まり、アメリアは動きを止めた。
「大体なぁ、お前さん、音楽をやろうってのはいいんだが、あの弾き方は女のするもんじゃねぇよ。かと言って、ガキが玩具にしてるってわけでもねぇし。なんてーのかな、ありゃ……ああ、鍛冶屋がたてる作業音だな」
ぐっ、と空気の塊を飲み込むアメリア。見ていて可哀想になるほどに、彼女は落ち込んでいった。
「わ、私は、駄目なのか?」
「ああ、駄目だな。全然駄目だ。これっぽっちも希望がねぇ。あんたの言葉を信じるくらいなら、胡散臭い予言者を信じた方がまだ希望はあるってもんだ」
力が抜けたように、すとんと腰を落とすと、アメリアはテーブルの上で手を組みその上に額を置いた。泣いているようにも見えるが、彼女がそんな人間でないことはシコードにももうわかっている。恐らく、胸の内から湧き上がる葛藤に顔をしかめているのだろう。
「なぁ、お前さん。何だって音楽なんか始めようと思ったんだ?」
シコードにとって、それが一番の疑問だった。何しろ『女らしさ』と『音楽』が全くつながらない。逆に『音楽』が『女らしい』かと言えば、とてもそうは思えない。何故彼女は音楽を選んだのだろうか。
「以前――」
アメリアはぽつりともらすように呟いた。声に張りはないが、それでもよく通る声である。
「以前、街中で見かけたんだ。ハープを奏でる吟遊詩人を。それはとても魅力的な女性だった。女の私でさえ震えがくるような魅力が、彼女にはあったんだ」
伏せていた顔を上げると、アメリアは続けた。まるで自分のことのように、誇らしげに。
「ハープを奏でる彼女は時に愛らしく、時に美しく、時に艶やかだった。その時は気付かなかったが、今ならわかる。私は、彼女に憧れたのだ」
そう語るアメリアの瞳は、夢を語る少年のように輝いていた。そんな彼女の目に気付いてしまったシコードは、今まで浮かべることのなかった柔らかな笑みを面(おもて)に出す。
「なぁ、ハープあるかい? できれば弦が切れてないやつがいいんだが」
「ああ。あるとも。だが、どうする気だ?」
怪訝な表情で彼女が口を開く。シコードはしかし言葉を返さず、ただにやりとしてみせた。
「ふむ? 意図はわからんが、取ってこよう」
「頼むぜ」
席を立ち廊下に出ると、アメリアはそのまま二階に上がっていった。程なくして、静かとは言いがたい足音を響かせ彼女が戻ってくる。その手には真新しいハープが抱かれていた。膝の上に置いて演奏する、いわゆるラップハープ(Lap Harp)と言う物だ。これは抱えて演奏することもできるため扱い易い物として見られがちだが、安定性に欠けるため弦の配置を覚えるのが難しく、初心者には向かない楽器である。
シコードはそれを受け取ると自らの膝の上に置き、軽く全ての弦を鳴らした。奇跡的に調律は狂っていないらしい。
「楽器ってのはな、独学でどうにかできるほど甘いもんじゃねぇんだ。基礎を知らないやつなら特にな」
弦を爪弾き一音鳴らす。澄んだ響きが室内に広がった。
「お前さんに足りないのは、ハープの弾き方に扱い方、弦の配置、強弱のつけ方、音のつながり、旋律の作り方、音と音との間(ま)、想像力、楽器に対する愛情、敬い、礼、そして何よりも」
また一音鳴らす。シコードは柔らかく瞳を閉じると、両手をハープに添えた。
「音の楽しみ方――音楽に対する心構えだ」
それを何と表現しよう。シコードの言葉が終わると同時に流れ始めたハープの音色は、夜の闇とそれに抗うように浮かぶ室内の明かりを際立たせるような雰囲気があった。辺りにある物を忘れさせるような主張の強いものではなかったが、しかし耳を素通りするような味気ないものでもない。目に映る全てのもの――闇も光も、何気ない家具も、建物の漆喰も――全ての存在を持ち上げるように、それらの背後に旋律が流れていく。空気すら変わってしまったような気がする。
全ての存在がつりあい、お互いがお互いを高めあっていた。旋律は何ものにも衝突せず、緩やかに存在の背後に流れていく。音と音との調和が旋律を生むのなら、この旋律は音と存在との調和と言えた。
時の流れすら肌に感じさせる音の調和は、不意に終わりを迎える。それは予定調和の内にあるようでいて、しかしまだ聞いていたいと願わせる音色から、唐突な終わりであるようにも感じられる。
閉じていた瞳を開き、シコードはアメリアに目を向ける。彼女は呆けたような表情でこちらを見ていた。焦点が定まっていないように見えるのは、恐らく視覚よりも聴覚に意識を向けているせいであろう。しばらくして彼女は、はっと顔を改める。
「今のは、魔法、か?」
「違う。ただ弾いただけだ。即興だがな。そうだな……小洒落たタイトルを付けるなら、ミスタス(Mistas:調和)へのオブリガード(助奏)ってとこか」
うんうん、と満足気に頷くシコード。
ほぅ、と吐息をもらすと、アメリアは再び呆けた顔をし余韻に浸り始める。
「一朝一夕にってわけにはいかねぇが、その気があるならお前さんにもできることだろうよ」
その言葉を聞くや否や、アメリアは余韻の世界から舞い戻るとテーブルの上に身を乗り出し、食い入るような眼差しをシコードに向ける。筆舌に尽くしがたい彼女の形相に、シコードは思わず身体を仰け反らせた。
「ほ、本当かっ!」
「あ、ああ。まぁ、やる気次第だがな……」
シコードの背を冷たい汗が流れていく。猛獣を前にした小動物の気持ちが、今ならほんの少しだけ理解できるような気がした。
テーブルを荒々しく叩き、彼女は身を引くと椅子から立ち上がる。そのままテーブルの上に乗ってしまいそうな勢いだった。
「やるぞ! 私は、やってみせる!」
彼女の背後に燃え上がる炎が見えるのは、はたして気のせいだろうか。
シコードはテーブルにハープを乗せると、ふっと笑んでみせる。のんびりとした動作で立ち上がり、闘志を燃やす彼女に顔を向けた。
「ま、がんばんな。じゃあ俺はこれで」
そそくさと室内を後にする。――だが、
「これからよろしく頼む、師匠!」
アメリアの脇を通り過ぎた時、背後からむんずと肩をつかまれてしまう。顔をひくつかせ、シコードは振り返らずに答えた。
「俺は何かといそが――」
「まさか、この私から逃げられるとでも?」
肩をつかんでいる手に力がこめられる。ぎちぎちと骨が悲鳴を上げた。
「くっ……」
呻く。シコード、一生の不覚であった。なまじ同情し、自らの手腕を見せたのが不味かった。面倒に巻き込まれるのは好ましくない。だが、このまま知らん顔を続ければ、更なる面倒に巻き込まれるのは確かだった。アメリアは曲がりなりにも一流の戦士なのだ。断ればどんな報復があるかわからない。
しばし黙考すると、シコードは瞳を閉じわずかに笑みを浮かべた。肩にある彼女の手に自分のそれを重ね呟く。吹っ切れたような笑みを浮かべているのは、ただたんに自棄になっているからであった。
「アメリア」
「何か?」
もったいぶるように間を空け、シコードは言葉を紡ぐ。
「師匠はやめろ。……先生と呼べ」
途端、アメリアの表情がぱっと明るくなる。喜びから彼の肩をつかんでいる手に更なる力が込められた。
「はい、先生!」
「あだだだだ! て、手を、離せっ!」
アメリアの手を引き剥がそうとするも、彼女の手は万力のように固定されびくともしない。しかも彼女は有頂天になっているのか、こちらの声が聞こえていないようだった。
(誰か、助けてくれ!)
声にならない悲鳴が、彼の心の内で虚しく広がっていく。改めて後悔するシコードであった。
翌日の夜、アメリアにスタンディングハープ(Standing Harp:床に置いて弾くため、フロアハープとも言う)を渡し、シコードは彼女にこう告げた。
「これから一週間の内に、弦の位置を覚えろ。どこを弾けばどのような音が出るか、お前の体に覚えこませるんだ。話はそれからだ」
無茶な注文である。いかに才能がある者でも、この短い期間で弦の配置を覚えることなど不可能であると彼は思っていた。素人にはこの難しさがわからない。できるものと考え、彼女は一心不乱に取り組むだろう。そうして期限を迎えた時、ある程度の感覚はつかめても配置を記憶できなかった彼女は、自らの力のなさを思い知り、志半ばに道を閉ざすはず。シコードはそう考えていた。
遠回しな拒絶である。
だが、アメリアは本気だった。彼女は寝る間も惜しみハープの一音一音を確かめながら控えめに奏で、ゆっくりとだが配置を自らの体に叩き込んでいく。それはハープを前にしていない時でも続けられた。イメージによるトレーニングである。アメリアは生粋の戦士だった。ただひたすらに剣を振り続け、斬撃の型をその身に覚えこませたこともある。彼女にとって弦の配置を覚えると言う地味で過酷な根気のいる作業は、しかし苦痛ではなかったのだ。
ストイックなアメリアにとって、その作業は得意分野に当たる。
シコードの誤算はそこにあった。彼女にとっての本気とは、命をかけるに値するものであり、彼女にとって自らに新たな技能を馴染ませていくと言うことは、苦痛ではなく喜びなのである。
約束の日、ハープを渡してから一週間が経った夜、シコードはアメリアの家を訪れた。彼女の家の二階に置かれたハープを見た瞬間、彼は自らの目を疑うことになる。
そこにあったハープは、まるで何年も使い込まれたかのように傷んでいたのだ。艶やかだったボディからは光沢が失われ、真珠のような輝きをたたえていた弦は、今やくすんだ照り返しを見せるばかりであった。
ハープに近付き、シコードは食い入るようにそれを見詰めた。手を伸ばし、撫でるように弦を鳴らす。ここまで痛みを露わにしているのなら、弦も随分たるんでいるに違いないと思っていた。だが、彼の手に伝わった感触は、しっかりと張られた弦の確かな反発であった。調律は狂っていないらしい。
(とんでもねぇな)
胸の内で感嘆の言葉を吐く。どれだけしっかりした作りのハープであっても、使い続ければ音は変わっていくものだ。それは単純に調律が狂っていくと言うこと。にもかかわらず、このようにきっちり音高が合わせられているのは、つまり彼女が調律したと言うことになる。それが意味することは一つ。
アメリアは、この短期間で弦の配置を覚えてしまったのだ。
(参ったぜ、こりゃ。とんでもねぇ拾いもんだ)
彼の心の声には、感動が半分、面倒だと思う部分が半分込められていた。シコードが言ったことを、彼女はしっかり守ったのだ。ならば次は、彼が約束を守る番。彼女に音楽を教えなければならないのは実に面倒ではあるが、しかし同時に大変な喜びでもあった。
(後継者、か。くそっ、俺も老けるわけだ)
茶色の髪を掻き乱し、シコードは彼女を一瞥した。アメリアは緊張を隠しているようだが、それでもはらはらとした視線をこちらに向けている。
正直な話、アメリアに音楽の才能はない。だが彼女には、言いつけを実直に守る勤勉さと、自らの怠惰に打ち勝つ強い意志がある。それもまた才能の一種であると言えよう。そしてそれは、得てして身に着けがたいものなのだ。音楽の才能よりも重要である。
「先生、私は……」
それまで黙っていたアメリアが口を開く。いつまで経っても答えを口にしない彼を見て、不安になったのだろう。
シコードは体ごと彼女に向くと、咳払いを一つこぼし、厳かな声を出す。
「残念だが」
アメリアは瞳を伏せ、力なく何かを呟こうとする。だがそれよりも早くシコードは言葉を続けた。
「合格だ」
「は?」
その言葉を聞くや否や、彼女は素っ頓狂な声を上げた。伏せていた瞳を上げ、シコードを真っ直ぐ捉える。
「仕方ねぇから教えてやるよ。ハープを見ただけでわかったぜ。お前さんは、俺の言いつけをきっちり守ったってな」
「で、では……!?」
はぁ、と深く溜め息をつくシコード。彼の顔には未だに面倒臭さが潜んでいるが、それでも約束を違えることをよしとしない男の相貌が覗いていた。
「教えてやる。一から十まできっちりとな。俺はスパルタだぞ。辞めたくなったら早めに言え。その方が俺も楽だからな」
「やってみせます、先生!」
アメリアの瞳に闘志が宿り、その背後で再び炎が燃え上がる。
「暑苦しい奴だぜ、まったく」
そんな彼女を見て、苦笑いを浮かべる。何はともあれ、ここまで来てしまったからにはやるしかない。そう腹を括るシコードだった。
その次の日からシコードの指導は始まった。シコードの教えは妥協を許さない厳しいものであったが、妥協を考えないアメリアにとって、それは肌に合うものだった。レッスンは基礎から始まり、音楽だけにとどまらずありとあらゆる分野を含めながら進められた。
「音楽も芸術の一種だ。何より大事なのは感性を磨くこと。そのために必要なものは、全てだ」
それがシコードの持論である。一見無駄なことのように思えるものでも、長い目で見れば必要になることがある。感性は生を通して得られるもの。生きている間に目にするもの、耳にするもの、心で感じるものこそがその人間の感性となるのだ。
「音楽とは文字通り『音を楽しむ』もの。では『音を楽しむ』ためにはどうすればいいのか、わかるか? アメリア」
その問いに、長いこと考えを巡らせた彼女は、結局首を横に振った。
「それはな、イメージを旋律にすることだ。世の中には自分の手腕を楽しむ奴や、技術を見せつけ褒め称えられることに楽しみを見出す奴がいる。だがそんな奴らは、結局のところ音を楽しんでいるわけじゃねぇ」
「先生。イメージを旋律にすると言うのは、どう言うことですか?」
彼女のその言葉を聞き、シコードはがっくりと肩を落とした。
「おめぇ、そっからかよ」
「面目ない」
うなだれるように顔を伏せるアメリア。
「お前には一度見せたはずだがなぁ。まったく! なら特別にもう一度見せてやるよ。しかと聴け!」
スタンディングハープに着いていた彼女を追い払い、シコードはハープに両手を添えた。
「いいか。人間誰しも、心の内にある風景を相手に伝えるためには、頭の中にあるそれを言葉と言う形にする。だが音楽家はそれを言葉にせず、音楽で伝えるんだ」
流れ始めた旋律は、以前彼が奏でた『ミスタスへのオブリガード』とは違い力強いものだった。一音一音が自己を主張し、辺りの風景をさらっていく。さながら、押し寄せては引いていく白波のように。
それは時に静かに凪ぐような、それは時に荒々しく迫るような、千変万化する大海原のごとき旋律であった。音は辺りに存在するものを飲み込み、どこまでも広がっていくように感じられる。だが、それは決して聴く者までさらいはしなかった。荒れ狂う海がどれだけ打ち付けようと、形を崩さない大地がある。波は崖を生み出し、大地をどこまでも削っていく攻撃性を露わにするが、それでも屈服しない大地はやがて岬となり、大海原を穿つ牙となる。その牙こそ聴衆であった。
偉大なる自然の猛威にすら抗う心。それを海と岬にたとえ、音楽と言う形にし具現化させる。それこそイメージを旋律にすると言うことであった。
「必要なのはイマジネーション(想像力)とコンセントレーション(集中力)、そして音楽に対する愛だ」
最後の一音を弾き終えると、シコードは少し間を置いてそう言った。呆けた顔でこっくりと頷くアメリアをやぶ睨みし、ハープから離れる。
「先生」
彼女は夢を見ているかのように呟くと、だらしなく下がった目をシコードに向ける。
「何だ?」
「今の曲は――今の曲に、名前はないのですか?」
「あるとも。題して『トライアンファルソング・ザ・シー(海の凱歌)』だ。もっとも、今付けた名前だがな」
けらけらと笑うシコード。だがアメリアはそんな彼を気にすることなく、その曲の名前を口の中で呟くのだった。
シコードの指導は続く。その間、アメリアは一度も弱音をはかなかった。そんなある日のことである。
「待った待った!」
シコードが怒りを含んだ声をアメリアに飛ばす。ハープに添えようとしていた手を離し、アメリアは彼に目を向ける。
「お前さんの音楽に対する情熱は評価するがよ。その手で楽器に触れようってのは、ちぃっとばかし考えが足りねぇんじゃないか?」
だらりと下げられた彼女の手を指差す。アメリアの手、そこから伸びる指の数本には血が滲んでいた。恐らくハープの弦で切ったのだろう。まだ奏法に慣れていない者がよくやることであった。
彼女は自分の指をじっと眺めると、再びその視線をシコードに向ける。
「これくらい、平気です」
「かぁーっ!」
頭を押さえ、ややオーバーに呆れてみせるシコード。
「そうじゃねぇ。そうじゃねぇよ、アメリア。いいか? 楽器ってのは音楽家にとって何よりも大切なパートナーだ。お前にとってはそのハープがそうだな?」
「はい」
「だったらよ、わかんだろ? お前さんはその相棒を血で汚そうってのか? お前の音楽に対する――楽器に対する愛情ってのは、その程度のものなのかよ」
言葉を返すこともできず、黙りこくりじっと彼を見詰めるアメリア。それは決して消極性から来るものではない。彼女はシコードの言葉を噛み締め、自らに問いただしているのだ。自分の音楽に対する想いは、いかほどなのだ、と。
並の人間ならば、ここで目をそらし取り繕った反論をしていただろう。だが彼女はそれをしなかった。シコードは内心、そんな彼女を褒め称える。
「手を出せ」
アメリアは素直に片手を出す。
「両方だ」
椅子を引きハープから距離を取ると、アメリアは体をシコードに向け両手を差し出した。
シコードは腰のポーチから短い包帯を取り出すと、血の滲む彼女の指にそれを巻き付ける。こんなこともあろうかと常に持ち歩いている甲斐があった。
「アメリア。お前のストイックさは素晴らしいものだと俺は思っている。だがな、もっと自分を愛してやってもいいんじゃないか? 自分を愛せない奴が、他の何かを愛せるわけがねぇだろ?」
「……先生」
ふっと笑うシコード。どこか悲しげな笑みであった。
「何だって楽しんでやろうや。それが一番の基本さ」
アメリアとの邂逅から、どれくらいの月日が流れただろうか。とてつもなく長いように思え、それでいて呆れるくらい短いようにも思える。
アメリアに基礎が備わり、ある程度イメージを形にすることができるようになった頃のことである。
「そろそろ本番、いってみるか」
何気ない口調でシコードはそう言った。
「本番、ですか?」
以前に比べ、幾分女らしさが備わった口調で尋ねるアメリア。とは言え、そのレベルはまだまだ低い。さすがのシコードも、アメリアのこの部分を矯正するには力が足りなかったようだ。
「そうとも。お前まさか、このまま趣味のレベルで通すつもりだったんじゃないだろうな?」
「いえ……しかし先生、本番とは一体何をするのですか?」
アメリアの問いに、一度大きく頷いてみせると、シコードはかねてより計画していたことを口にする。
「お前が音楽を始めたきっかけは、結局のところ仲間を見返してやりたかったからだろ? 何かを始める動機ってのは、大体そんなもんだ。それで、だ。近い内に小規模なコンサートを開こうと思う。客はお前の仲間達だ」
そいつらを見返すにはぴったりの場だろう、とシコードは豪快に笑った。しかしアメリアは眉をひそませ、渋るような表情を浮かべる。
「私に、できるでしょうか?」
「馬ッ鹿、おめぇ、もっと自分と俺を信じろ。こう言うのはな、必ず通らなきゃいけねぇもんなんだよ。大体、やって来るのは気心知れた連中だろ? 駄目で元々当たれば儲けだ。それにな、お前さんは以前に比べりゃだいぶマシになってるはずだぜ。その、何だ。女らしさってのも多少は付いてるはずだ」
女らしさの部分で少し口ごもったのは、彼もやや不安だったからなのかもしれない。だが、以前に比べれば少なくとも前進しているのは確かだった。
「実はな、アメリア。もう場所は、取っちまってるんだ、これが」
それはつまり、采(さい)は投げられたと言うことである。彼女に選択権はないのだ。
シコードは照れ笑いのような微妙な笑みを浮かべると首筋を掻いた。痒かったのだ。
「先生……」
アメリアは何かを訴えるような眼差しを彼に向ける。決してその何かを口にしなかったが、彼女は明らかに不満を投げかけていた。
「ともかく、もう決めたんだ! だからお前も覚悟を決めろ。いいな!」
駄々をこねるようにそう口にするシコード。アメリアはそんな彼を無言で眺めると、しばし間を空けて渋々頷いた。
「わかりましたよ、もう」
「だっはっはっ! 詳しい日取りが決まったら報せる。それまでは特訓だ!」
愉快痛快とでも言わんばかりに笑いのけるシコード。図らずも今、全てが動き出した。始まりはいつも唐突にやって来る。彼がそれをアメリアに伝えたかったのか否かは定かではないが(恐らく『否』だろうが)、ともかく彼女に機会が訪れたのである。
やれやれと肩をすくめ、アメリアはハープに手を添えた。何にしろ彼女ができるのは、ただハープを弾くことだけである。
街の喧騒から離れた場所に建てられた、小ぢんまりとした劇場。シコードの知人が経営するその建物は、見た目とは裏腹に必要な物をしっかりと揃えた舞台が備えられている。豪華絢爛とはいかないものの、質は悪くない。街道からも近く、人を招くのに困ることもないだろう。人前で演奏する最初の一歩としては申し分のない劇場であった。
劇場の二階にある控え室で、シコードは出されたワインをすすっていた。舞台に上がる前に出される景気付けの一杯だ。もっとも、実際舞台に上がるのは彼ではなくアメリアなのだが。
(渋いな)
支配人の心遣いによるものなので、文句を声に出すことはしなかったが、それでも彼は眉根を寄せ渋い顔を作る。ワインよりもエールの方がいいと胸の内で思いながら、渋みの残る安物のワインをぐっと飲み干した。
控え室を何人もの人間が出入りしている。そのどれもが似たような衣服に身を包んだこの劇場のスタッフであった。鏡の前に座り、普段とは違う淡いラベンダー色のドレスを着たアメリアは、周りの喧騒に飲まれるように身を固まらせている。
シコードはそんな彼女にそっと近付くと、彼女の肩に手をかけた。びくりと体を震わせ、アメリアは彼に顔を向ける。
「初めてだから仕方ねぇとは思うがよ。ま、気楽に行こうぜ」
「先生……」
何か言いかけて口をつぐむアメリア。頭がうまく働いていないのだろう。シコードは彼女に手にしていたワインの瓶を差し出すと、にっと笑みを浮かべた。
「一杯引っかけて――っと、もうねぇんだった」
そう言うとシコードは苦笑いを浮かべ、鏡台に瓶を置く。
「ああ、せっかくだからエールにしよう。あれが一番美味いんだ」
「いえ、酒は飲(や)りません。本番前ですし」
彼女は静かに首を振る。シコードは「ふぅん」と呟くとすぐに、彼女の背を豪快に叩いた。ぱしぃん、と張りのある音が室内に響く。アメリアはその音と痛みに驚き、背筋を真っ直ぐに伸ばした。声が出なかったのは驚きと痛みからであろう。
「馬鹿だな、おめぇ。何回も言ってるだろうが。『音を楽しんでこその音楽』だってな。お前自身が楽しめねぇのに、一体誰を楽しませようってんだ」
「しかし……緊張はします」
アメリアは彼の行為に文句を言うでもなく、不安そうな顔を崩さぬままそう呟いた。
「多少の緊張はいいさ。気が引き締まる。だがな、お前さんのは緊張じゃねぇ。失敗することを恐れてるだけだ」
顔をうつむかせる彼女。シコードは一度長い息をはくと、言葉を続けた。
「いいじゃねぇか、失敗したってよ。何もこれっきりってわけじゃねぇんだ。今回はな、来た奴らの胸を借りるつもりで、どーんとやってこい」
瞳を上げ、アメリアは彼を真っ直ぐ見詰めた。彼女の眼は「それで構わないのでしょうか」とまだ不安に曇っている。
「お前は弾くことだけを考えろ。今まで俺が教えたことを全部出し切ればいいんだ。きっちり見といてやるから、心配すんな」
「先生。最後まで、いてくれますか?」
彼女の瞳は、まるで親とはぐれた子供のようであった。雑踏の中でただ一人、行くことも戻ることもできなくなった子供が、たまたま声をかけてくれた人にすがる、そんな瞳。ここで断られたらもう後がない、絶壁を背に立ち尽くす人間の眼差しだった。
「ああ、きっちり聞き届けてやる。だからお前は、お前の役割を果たせ」
「……はい!」
ようやく彼女に強い意志が宿り始める。それが彼女の長所なのだ。何かを成し遂げようとする意志があったからこそ、彼女はここまで来ることができた。それがなければ、今この場に彼女もシコードもいなかっただろう。
「よし、じゃあちょっくらエールを買いにいってくらぁ。まだ出番まで時間もあるしすぐ戻ってくっから、不安になって泣いたりするんじゃねぇぞ?」
その言葉に、アメリアはむっとした表情を浮かべる。
「泣きません。私を何だと思ってるんですか。それくらいで泣いたりしません」
どうだか、と内心思いながらシコードは苦笑する。さっきまで泣きそうな顔をしていたのは、一体どこの誰だっただろう。シコードはしかしそれを口にせず、彼女に背を向け肩越しに手を振った。
「お前にも飲ませてやるからな。楽しみにしてろ」
「……もう」
呆れたように呟く彼女。だがその顔にはうっすらと笑みが浮かんでいた。
しかし、予定の時刻が迫ってもシコードは戻ってこなかった。彼は約束を違える人間ではない。そのことは、アメリアが一番よく理解している。その彼が戻らないと言うことは、もしかしたら彼の身に何かが起こったのかもしれない。
刻一刻と出番が迫る。アメリアは再び不安に襲われた。うまく演奏できるがどうかにじゃない。シコードが戻ってこないことにじゃない。彼が無事であるかどうか、それが心配で不安だったのだ。
やがて開演の時間がやって来る。だがシコードは帰って来ない。戦場に出る以上の不安が湧き上がり、わずかにそれを顔に出していたアメリアは、しかし表情を改めると誘導に従い舞台へとおもむいた。
何があろうとも、私は私の役目を果たすだけ。それが先生との約束であり、先生の期待に応えることなのだ。これは私が決めたこと。私がやらねば、誰がやる!
信頼に応えると言うことはとても難しいことなのだ。だから、誰もがそこから逃げ出してしまいたいと考える。彼女も例外ではなかったが、それでも彼女は逃げ出すことを選ばなかった。これを貶めるのはいつも逃げ出した者で、理解できるのは逃げ出さなかった者だけである。そして信頼を勝ち得るのは、いつの世も後者であった。
壇上に上がりスタンディングハープに着く。間もなく幕が上がる。彼女は想像力を張り巡らせ、意識を集中させた。
シコードは必ず、いつもの調子で戻ってくるだろう。それを信じる。彼を信じる。だから彼を失望させないためにも、今は全力を尽くすだけ。
薄い幕の向こうからいくつもの声が届いてきた。演奏を始める時が来たのだ。今、ゆっくりと幕が開いていく。
時は遡(さかのぼ)り、アメリアの演奏が始まる前のこと。開演の準備に追われる劇場を抜け出し、シコードは一番近い街にまで出ていた。理由はもちろん、エールを買うためである。
やはり酒はエールに限る。あの味、あの喉越し、そして飲む度に思い出すあの風景。あの場所は今も変わらずにあり続けているだろうか。幼少の時分を過ごした、今はもう遥か遠い故郷。
胸の内で広がっていく郷愁に気を取られ、彼は酒場を通り過ぎていく。はたと気付いた頃には、目的の場所は遥か後方に位置していた。
(いけね)
誰が見ているわけでもないのに、シコードは照れ隠しの笑みを浮かべる。痒くもない頭を掻き、踵を返した。
酒場の扉に手をかけ店内に入る。中にいた数人の客の視線が注がれるも、彼は気にせずカウンターに向かった。特に目立つような姿をしているわけじゃない。興味はすぐに失われるだろう。
「おぅ、シコードじゃねぇか。随分久しぶりだな」
カウンターでカップに付着した水滴を拭っていた店主がそう口にする。
「ああ、たまたまこの近くに来ることがあってな。ちょいと買出しに来たってわけだ」
「そうかい。で、何にする?」
拭き終わったカップを傍らに置き、店主は両手をカウンターについた。そこにはどんな注文にも答えてみせると言った意気込みが込められているように見える。
「エールだ。持って帰るからな、瓶でくれ」
「相変わらずのエール狂だな。この辺りじゃワインの方が美味いんだが――」
「ぬかせ。あの渋いワインのどこが美味い。いいからエールをくれ。三本でいい」
カウンターに肘をつき、シコードは店主をやぶ睨みする。味はともかく、この辺りでの主流はワインだった。どこにいっても出てくるのはあの渋い葡萄酒で、エール好きの彼にとっては、はなはだ迷惑な話なのだ。こうしてエールを買いにわざわざ出てくる羽目になったのも、全てはこの地域に根付いている葡萄酒信奉のせいである。
「けっ、ワインバカどもの味覚にゃついてけねぇぜ。どうせ俺ぁ日陰者だよ」
むくれるように文句を吐く。そんなシコードの前に、エールが三本差し出された。
「まぁそう言ってやるな。蓼(たで)食う虫も好き好きって言うだろ?」
「聞いたこともねぇよ。いくらだ?」
店主は両手を使い指を六本立てる。それを見てシコードは「ぼったくりめ」と毒づきながら代金を払った。他所ならもっと安い。これもワイン狂の仕業だろうか。
「なぁ、シコード。今日はどこで何してんだ?」
エールの瓶を両手に持ち踵を返したシコードの背に、店主の声が届く。シコードは一瞬足を止め考え込むと、肩越しに声を飛ばした。
「今回は内緒だ。また機会があったら、お前さんも招待してやるよ」
「そいつぁ嬉しいねぇ。楽しみにしてっからな」
がはは、と豪快に笑う店主。彼とシコードは古い知り合いだった。だからこれだけで通じるのである。
店を後にし、シコードは劇場に足を向ける。まだ開演まで時間はある。慌てて帰る必要はない。
(しかしこの俺が、教え子を持つことになるとはなぁ)
劇場までは何もない。目を楽しませる物も、会話を楽しむ相手も。だから彼はアメリアのことを思い浮かべた。彼女はよくやっている。だから今回の演奏会は成功させてやりたかった。
とは言え、彼にできることはもうほとんどない。成功させるのも失敗させるのも、全ては彼女次第なのだ。事はもうそこまで進んでいる。
(普段通りにできりゃ成功間違いなしなんだが)
はぁ、と溜め息をついたのは、アメリアが彼の予想以上に緊張していたからだ。怖気づいてしまっていると言ってもいいかもしれない。それを何とかしてやるのが師としての務めなのだとすれば、シコードはその点において師としての資格がないとも言える。なぜならば、彼はこれまで教え子を持ったことなどなく、また誰かの緊張を解いてやる手段を知っているわけではなかったからだ。
手にしたエールに目をやり、彼は再び溜め息をつく。こんな物でどうにかできるなら、いくらでも買っていってやれるのだが、こんな物でどうにかなってしまうのは、世界広しと言え恐らく彼だけであろう。彼はエールがあれば、それだけで『世はこともなし』と言う人間なのだ。アメリアが彼と同じ人間なのかと問えば、答えは否である。
(我ながら浅はかだとは思うぜ)
自分を他人に投影し、相手にとってよかれと思う行動をする。それは結局『自分の物差しで相手を計る』と言うことに他ならない。だが、それは同時に『相手の立場になって考える』と言うことでもある。何もせず影のように黙っているのは簡単だ。だが、そこには誠実さの欠片もない。相手の信頼に応えようとするならば、それではいけないのだ。
アメリアはシコードを信頼している。だから彼女はこれまでシコードの言いつけを守ってきたのだ。苦行であっただろう、痛苦であっただろう。それに長い間耐えてきた。そんな彼女に訪れる報いは、裏切りであってはならないのだ。
人は考えごとに没頭していると辺りが見えなくなるものである。それはシコードも例外ではなかった。普段の彼ならばそんなこともなかっただろう。だが今の彼は生徒であるアメリアのことで頭が一杯だったのだ。だから彼が、
前方から迫る早馬に気付けなかったのも、仕方ないことだったのかもしれない。
最後の一曲、その最後の一音が消え去ると、舞台上のアメリアはがっくりと頭を垂れた。長い金色の髪が彼女の顔を隠し、どのような表情を浮かべているのかはわからない。客席から窺えるのは、全力を出し切り精根尽きたような彼女の姿だけであった。
少しの間、場内を静寂が支配する。話す者も野次を飛ばす者も感想を述べる者もいない。そこに拍手が一つ響いた。遅れてまばらな拍手が起こり、最後には盛大なものとなるのだった。
アメリアの演奏会は成功の内に幕を下ろす。かのように思われた。だが彼女の心は納得していないだろう。この場には、彼女の師であるシコードの姿がない。彼女は、そう、本来の目的であるギルドの仲間を見返すことよりも、師シコードに聞いて欲しかったのだ。これまで培ったものの全てを。
金色の髪に隠れた彼女の表情は、どのようなものであるだろうか。それは彼女にしかわからない。誰も彼女の心の内は覗けないのだ。
もしそれがわかる人間がいるとすれば、それは類稀なる想像力と、それを活かす集中力を持っている人物。そして、彼女を側でよく見ていた人間に他ならない。
舞台上にだけ明かりが灯り、外の明かりが入り込んで来ないよう閉め切った客席は、どこまでも薄暗かった。拍手が止み、ざわざわと騒がしい場内に、一瞬外の明かりが差し込む。内外をつなぐ扉が開かれたのだ。
入ってきた男はどこか薄汚れており、ばつが悪い表情をしていた。茶色の髪は土で汚れ、一見すれば貧相な物乞いにも思える。
そんな彼に一人のスタッフが近付く。
「申し訳ありません、本日は――」
「馬鹿野郎、俺だ」
髪をかきあげ、男は頭に付いた土を除ける。彼の名はシコード。そう、今ようやくこの劇場に帰って来たところだった。
驚いたのはスタッフである。これまで行方不明になっていたシコードが、不様な格好で帰って来たのだから無理もない。
「一体どちらへいらしてたんですか!?」
「こっちが聞きてぇよ。ったく、あの糞馬め。今度会ったらぶち殺してやる」
腹立たしげにシコードはそう呟くと、両手を腰に当てた。
あの時、前方から迫って来ていた早馬とあわや衝突しそうになりながらも、シコードは何とか身をかわすことに成功した。肝を冷やし安堵の溜め息をついた刹那、彼は何かに足を取られる。盛大にすっ転んだ彼は、しかしそれだけにとどまらず凄まじい勢いで引き摺られていくのだった。あまりの勢いに体を動かせず、どこまでも地面の上を滑り続けた彼は、ある瞬間、突然虚空に体を放り出される。地面に叩きつけられ、しかしそれでも止まらない勢いにごろごろと転がされると、ようやく彼は自由を取り戻すのだった。
どことも知れない場所で、しばし痛みに呻いた後、シコードは顔を上げ自分の足に目を向ける。そこには古びたロープが絡み付いていた。ご丁寧にロープは靴の中にまで入り込み、しっかりと彼の足をつかんでいたのだ。恐らく、あの早馬のどこかに巻き付いたこのロープは、その端を彼の足にも巻き付けたのだろう。
文句を言ってやろうと体を起こした時には、早馬の姿はどこにもなかった。彼が手にしていたエールも、全てどこかにいってしまっている。
それが、シコードが帰って来れなかった原因である。彼は深く溜め息をつくと、がしがしと髪を掻き乱した。髪の間に入り込んだ砂がむず痒い。
「弾(や)り終わっちまったみてぇだな」
壇上にいるアメリアに目を向けてシコードは呟いた。
「はい。ずっとあなたのことを気にかけていましたよ」
「そうか。悪いことをしちまったな」
舞台上にいる彼女は、未だうなだれるように顔を伏せている。その表情はここからではわからない。わからないのだが、何となく想像が付く。結局、アメリアは普段通りの演奏をすることができなかったのだ。
客席の反応を見ればわかる。誰もが彼女を称えていた。その腕前を誉め、我がことのように喜んでいる。それは、ここにいる者達が皆(みな)、彼女の仲間だからだ。白けている者はいなかったが、同時に、余韻に浸っている者もいなかった。
アメリアもそれには気付いているのだろう。だからあんなにも力なく佇んでいるのだ。
(何かが足りなかった。その責任は……俺にもあるよなぁ)
ふぅ、と短く息を吐く。シコードは考えていた。汚名は返上しなくてはならない。まだ、終わりではないのだ。幕はまだ開いている。
その時、スタッフと同じ衣装を着た男が一人、シコードに歩み寄ってきた。この劇場の経営者であり彼の友人である。
「シコード! どこいってた!」
「説明するのは面倒なのでパスだ。とりあえず、不可抗力とだけ言っておく」
困ったように苦笑する男。
「まぁ、お前のことだから、こう言う時に馬鹿やりゃしないだろうが……それで、どうする?」
腕を組み、じっとアメリアを見詰めるシコード。
「そうだな」
彼がそう呟いた時であった。
壇上のアメリアがゆっくりと顔を上げる。その表情は、距離があったのでやはりよくわからなかったが、しかしまとっている雰囲気が変わっているのだけは感じられた。先程までの悲壮感のこもったものではない、何かを決意したような雰囲気であった。
彼女は客席に目を向けることもなく、ハープの弦を一つ鳴らす。まるでこれから演奏を始める合図のように。
そして流れ始めるハープの調べ。その曲を耳にした時、シコードは耳を疑った。
(これができて客がこの反応だってんなら、俺はこの世界の教養を疑うぜ!)
シコードは先程までの彼女の演奏を知らない。だからそのように思ったのだ。
客席の話し声がぴたりと止まる。側にいたスタッフも経営者である友人も、目を皿のように丸くして彼女の演奏に囚われていた。
それは、これまで披露していた曲とは違い、技術だけが際立った演奏ではなかった。彼女の心象風景が、そのまま旋律になったかのような演奏。そう、シコードの手法を体現するものだったのだ。
始まりの曲には聞き覚えがある。彼が初めてアメリアに聞かせた曲だ。決して自己を主張せず、辺りの存在を際立たせるように裏で流れる静かな曲。だからと言って決して迫力に欠けるものではなく、他の存在を際立たせることにより、自らをも高める調べ。調和の内に全てが昇華されていく楽曲。ミスタスへのオブリガード。
切りのいい部分まで曲が流れると、ゆっくりと旋律が変化していく。矛盾を感じさせない転調と共に姿を現したのは、荒々しいリズム。それは時に鳴りを潜め、時に勢いを増す、さながら海のごとき曲であった。転調前とは打って変わってあらゆる存在を飲み込む楽曲。しかし聞く者に自らを忘れさせることはせず、曲の中で逆に自らを強く意識させるものであった。その曲の名は、トライアンファルソング・ザ・シー。雄大な海の脅威と、それに抗う岬を表した曲だ。思えば、アメリアはこの曲を特に気に入っていた。
二度目の転調が訪れる。変化した曲は、シコードが初めて聞く彼女独自のものであった。
そこに込められていた真の意味に気付けた者はいないだろう。彼女の師であるシコードを除いての話だが。
緩やかに流れる旋律は、技術的に間違いはなくすんなりと耳に入り込んでくるものだった。だがそこに込められたものは――その曲を聴き感じることは、小さいながらも確かな形の苦悩。さながら指先に刺さった棘のように、意識して聴けば耳に障る音が潜んでいた。気付かない者は気付かない小さな不快音。それを消し去るように優雅に流れる主音。一際主張する旋律の中に隠された耳障りな音こそ、彼女が抱いていた取るに足りない悩みなのだ。
それがある時を境に反転する。耳障りな音が前面に現れ、優雅なものが裏に隠れる。だが、不思議と聴く者を逃さない魅力があった。強引さ、とでも言おうか。絶妙なバランスに、奇妙な心地よさすら感じ始める。
だがそれでは駄目だ。シコードにはそう感じられた。彼だけはそう感じられたのだ。
「おい、ハープあるか?」
呆けていた友人に声をかける。彼ははっとしたような表情を見せると、シコードに言葉を返した。
「舞台の上に――」
「馬鹿野郎! フロアハープじゃねぇ、ラップハープだ! さっさと持ってこい!」
友人の尻を文字通り蹴りつけ、彼を走らせる。シコードの心は躍っていた。
(あの馬鹿が。俺がいることに気付いてねぇくせに、こんな曲、弾(や)り始めやがって)
アメリアに向かって胸の内で嗜める。彼女はこの曲をどう変化させるつもりなのだろうか。これは、彼の考えが正しければ、彼女だけで変化させられる曲ではない。きっかけが必要なのだ。
ほどなくして戻ってきた経営者が手にしていたラップハープを、引っ手繰るように受け取ると、シコードはそれを片手で抱き片手を添えた。タイミングを待ち、瞳を閉じる。
(イマジネーション、コンセントレーション……そして、パートナーか。やるじゃねぇか、アメリア)
アメリアが弾いている曲は、彼女一人ではそれ以上変化しない。だから彼女は切りがいいところまで弾き終えると、その手をハープから放した。
それが合図だった。
ラップハープの音はスタンディングハープに比べて小さい。だが、それはどうしようもないものではない。音が小さいだけで、目立たせることができないわけではないのだ。
シコードは彼女の演奏を引き継ぐようにラップハープを奏で始めた。
そこから流れ始めたものは、実に荒々しいものだった。まるで口汚く相手を罵るように。だがそれでいてどこか滑稽な響きを含んでいる。聴く者の心を躍らせるリズミカルな旋律だった。
舞台上のアメリアが、はっとしたようにこちらに顔を向ける。シコードは彼女に片目を閉じてみせた。彼女は柔らかな笑みを浮かべると、再びハープに手を添える。
ラップハープとスタンディングハープから流れ出した調べは、まず最初に衝突する。お互いを牽制するように、片方が音を荒げれば片方が音を潜める。だがそれは次第に調和していき、やがて手を取り合うように重なり合った。スタンディングハープの大きな音に、ラップハープが小さな音を細かく合わせていく。
途中で一度、スタンディングハープが鳴りを潜める。そこでラップハープが奏でたのは、テンポの速いミスタスへのオブリガード。ラップハープがそれを奏で終えると、スタンディングハープがそれを真似て演奏し始める。その裏でラップハープが、まるでスタンディングハープを導くように、意図的に空けられた穴を埋めていた。
そしてまたスタンディングハープが鳴りを潜めると、次にラップハープが奏で始めたのはトライアンファルソング・ザ・シー。今度はすぐにスタンディングハープも音を鳴らし始める。ラップハープに一泊遅れて奏でられるスタンディングハープ。それはさながら、風が波を作っているかのようであった。
転調。次に鳴りを潜めたのはラップハープ。スタンディングハープが奏でるのは、彼女が一人でトライアンファルソング・ザ・シーを奏でた次に演奏し始めた独自の曲。ただ先程と違う部分がある。それは、小さく鳴っていた不快音が消えていること。
鳴りを潜めていたラップハープが、徐々に姿を現していく。スタンディングハープの陰で、しかし大きなハープの音に紛れてしまうことなく。
それは二つのハープが合わさることで初めて完成する曲であった。なぜならば、彼女が奏でようとしていたのは、ここに至るまでの全ての日々だったからだ。彼女がシコードと出会い、この舞台に上がるまでの日々。それは一人では奏でられない。シコードがいなければ、たどり着けなかったのだから。
互いを信じあった結果、生まれた即興曲。彼らは、語り合うように音を紡いでいく。その曲に名前を付けるなら、『ハープのアリア(竪琴の詠唱)』であろう。歌うように旋律が流れていく。
最後の一音を同時に鳴らし、二つのハープは演奏を終えた。かのように思えた。だが、一拍置いてスタンディングハープが短い旋律を奏でる。
それは礼であった。シコードに対する、短い礼の言葉。短いながらも――いや、短いからこそ、詰め込まれた感情に、聴く者は心を容赦なく揺さぶられる。
本当に最後の一音が鳴り終えると、アメリアはゆっくりと立ち上がり、客席に向かって恭(うやうや)しく頭を下げた。
しんと静まり返った客席。誰も音をたてない。先程のように拍手が起こることもない。だが、アメリアもシコードもそれで満足だった。客席に座る人間の顔を見ればわかる。誰もが恍惚の中にいるだろう。
とは言え、これではいささか味気ない。そう考えたシコードは、わざとハープの弦を鳴らした。乱暴に引っ張り、ビン! と耳に付く音をたてる。
それが合図となり、場内に拍手と歓声が響き渡る。指笛の高らかな音が響く。中には涙を流している者もいた。
アメリアは改めて頭を下げる。それを見てシコードは力強く頷いた。
こうして、アメリアの初舞台は成功の内に幕を閉じるのであった。
エピローグ
街中にある大きめの劇場に、一人のハープ奏者が招かれていた。落ち着いた色合いのドレスを身に着け、長い金髪を揺らしハープを奏でる彼女に、誰もが心を奪われる。その類稀なる美貌にではない。その神がかった演奏にだ。
彼女の演奏を耳で楽しみ、穏やかな視線を送る初老の男が静かに口を開く。
「よもや、こんなところでこの演奏を聞けるとはな」
男の隣に座っていた青年が口を開いた。
「彼女を知っているので? あ、いや、有名ですもんね、彼女」
青年の声に、しかし男は首を横に振って答える。
「彼女と同じ弾き方をする男を知っている。ああ、だからか。彼女の通り名の意味がようやくわかったよ」
朗らかな笑みをこぼし、男は一人納得した。その意味を図りかね、青年は首を傾げる。
「彼女が何と言われているか、知っているかね?」
「え? ああ、はい。知っています」
舞台上でハープを歌うように奏でる女性。彼女は、誰が名付けたかは知らないが、こう呼ばれていた。
『サクセサー・オブ・レジェンド(伝説の後継者)』アメリア、と。
「しかし、誰の後継者なんでしょうかね?」
ふっ、と男が笑う。青年が知らないのも無理はない、と言うかのように。
「昔……そう、我らの陛下がまだこの地におわした頃だ。彼女と同じように、ハープを歌うように奏でる男がいた」
その男は、どことも知れぬ地からやって来て、誰も聞いたことのない曲を奏で続けたと言う。彼は一曲を除き、全てを即興で作り上げる、言わば天才であった。
「私はな、幼少の時分、彼の代表曲とも言えるものを聴いたことがある。それは凄まじいものであったぞ。彼女も素晴らしいとは思うが、彼のあの曲を聴いた身では、いささか物足りなさすら感じるよ」
あの曲に込められていたものを表現することはできない。実際、聴いてみなければ理解できないだろう。
「曲名はご存知で?」
「ああ、彼に聞いたよ。『トロイメライ・フォー・UK(故郷に捧ぐ夢想曲)』だそうだ」
「はぁ」
「もしも君が幸運の女神に愛されているならば、いつかきっとその曲を聴くことができるだろう。もっとも――」
男はいたずらな笑みを浮かべると、言葉を続けた。
「もう遥か遠い昔のことだ。我らが陛下のように異なる世界から来た者でなければ、もう生きてはいないだろうがね」
「へっくし!」
豪快なくしゃみをこぼし、シコードは鼻をすすった。時刻は深夜、場所は彼の自宅。いつものようにリビングのテーブルに着きエールを楽しんでいた時であった。
「ったく、誰か噂でもしてやがんのか? こんな時間に?」
はっ、と笑い飛ばす。いくらなんでもそれは考えられなかった。こんな時間に起きているのは、ただの酔っ払いか勤勉な人間だけだ。彼は前者に当たる。もっとも、時間差なら話は別なのだが。
「時間か……時間ねぇ」
カップにエールを注ぎ、シコードはそれをぐいと呷った。
「あれから、随分な時間が流れていっちまったな。これだけ経っても駄目だったんだ。もうこっちに骨を埋めるしかねぇのかもな」
虚空に語りかける。彼の目には何が見えているのだろうか。
「なぁ、リチャード。お前は、戻れたのか? お前のもう一つの故郷に。俺達の故郷に」
郷愁が彼の胸に湧き上がる。長い時間をこちらで過ごしたが、こればかりはいつまで経っても消えてくれなかった。故郷への想いは。
こんな夜はハープを奏でるのが一番かもしれない。故郷へ捧ぐ夢想曲を。
その時だった。自宅の玄関が激しく叩かれたのは。
ぎょっとして耳を傾けるシコード。外から切羽詰った女の声が響いてくる。
『先生! 先生! 開けてください! 先生! 開けて――開けろっ!』
最後は命令口調であった。シコードは頭を抱え聞こえない振りをする。
(何だってこうなっちまうかな)
扉をひっきりなしに叩いているのはアメリアだろう。彼女への指導は今もまだ続いている。それがいけなかったのだろうか。一時は改善されたように思えた彼女の口調が、今では以前よりも酷いものに変わってしまっていた。それは間違いなくシコードの影響である。
「くそっ、しくじったぜ」
舌打ちし後悔する。このままでは、いずれ口だけでなく態度まで乱暴なものになるだろう。終いには拳が飛んでくることになるかもしれない。考えただけでも恐ろしい。すっかり忘れていたが、彼女は生粋の戦士なのだ。ハープ奏者として名を馳せつつある今でも、それは変わらない。
『先生! 話があるんです。だから開けてください。早くっ!』
「話ってなんだよ。勘弁してくれっ!」
テーブルに突っ伏し、シコードは助けを乞う。
(ああ、リチャード。俺もそっちに連れてってくれ。今だけ!)
彼の心の声に応えが返ってくることは、永遠になかった。
昔、一人の男がいた。彼は歌うようにハープを奏で、人々を魅了していったと言う。今はもう知る人は少ないが、それでも彼を知る一部の人間は、彼の口の悪さを多少皮肉しこう呼んでいる。
『ソーサラー・オブ・ハープ(竪琴の魔術師)』シコード、と。
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