路地の奥から母親が子供を折檻しているのか、ヒステリックな怒鳴り声と耳障りな喚き声が聞こえてきた。
それに続くように、俺が座っている目の前を誰かが右から左へと軽快に走り抜けた後、それを追いかける声だけとなった「泥棒ー!」の叫び。
暗い世の中になったもんだ。
頬に照りつける日差しから伺えるような明るい世界になって欲しいと思うのは、俺が乞食というお気楽且つ自由な身分だから故に考えてしまうエゴなのか。それとも、今が単に怪物どもの侵攻とやらに泣き寝入りせざるを得ないような状況にあるだけで、満ちた潮がいずれは引くように、その内勝手に世界は逆方向に示される指標を辿る運命にあるのか。
ブリタニアの大地を見守る二つの月だけは、その先を知っているやらいないやら……。
――ここは、スカラブレイの大通りから外れた路地裏。
その乞食は息をつきながら、目の前に置いてあった小さな箱を手に取って軽く振った。
わずかな小銭の音がしたのを聞くと、皺が目立ってきた男の顔は少し緩んだ。
「それでもまだ慈悲の心はあるようだな。あんたもそう思うだろう? 徳の教えが無かったら、俺はとっくに飢えて死んでいただろうに」
小銭を穴の空いてない方のポケットに入れて箱を地面に戻し、薄汚れた愛用の皮敷物の上に座り直した。
◇
日が傾き始めたのだろう。
辺りの喧騒が夜の賑わいへと移り変わろうとし始めたので、今日は仕舞いにしようかと思った矢先、目の前に誰かの気配を感じた。
「おじさんは誰?」
突然聞こえてきた可愛らしい少女の声音に反応して、俺は顔を上げた。
乞食を知らないのか、その少女は不思議そうにもう一度訪ねてきた。
「おじさんは、ここで何をしているの?」
いつもならこんなガキは相手にせず放っておくのだが、夕闇の空気が戯れに俺の口を開かせた。
「俺は乞食なんだが、お嬢ちゃんは乞食を知らないのかい? 通りすがりの人間からお金を少し恵んでもらって暮らしている人間だ」
「お金を恵んだら何かしてくれるの?」
おかしな事を言うなと思った。
乞食が施しを受けた人間にする事があるとすれば、その人間の心を少し裕福にしてやるくらいだ。
お金を恵む事によって乞食は救われる。私はいい事をしたんだと思わせられれば、何かしてやった事になるのだろう。
だが、乞食道とは名ばかりの言い訳じみた説教を往来の真ん中で子供にしても仕方ないので、
「何もしないさ。俺は何も出来ないし何かをしてやる事もない。いくらか恵んでもらって、その日を生きているだけの人間なんだよ。さぁ、分かったらもう家に帰るんだ」
そう言って片付けようとした小箱から、チャリンと音がした。
音と重さからして箱に入れられたのは3gpってところか。入れたのは勿論その少女だ。
しかし、子供が何故乞食に施しを与える? 心が貧しいだとか、慈悲の教えだとか、そんなものにはまだまだ無縁の存在だろうに。
「いいのかい? 大事なお金なんじゃないのか?」
「ううんいいの、しばらく好物のマフィンがお預けになるだけだから」
そう言って少女は、俺の隣に腰掛けた。
好物を犠牲にしてまで恵んでくれた相手を邪険に扱うわけにもいかず、かと言って、その人間がいるのに立ち去るのもなんとなく気まずい。
横にいる彼女の方にちらりと顔を向けた。
何か言いたそうな俺の顔を察したのか、右往左往している心の中を見透かしたのか分からないが、その少女は続けた。
「話を聞いてくれる?」
……まぁいいか、このまま放っておくのも寝覚めが悪い。
仕舞おうとした小箱を置いて腰を据えたのを返事と受け取ったらしく、ゆっくりと口を開いた。
「わたし、遠くに行きたいの……。此処ではないどこか遠くへ」
それは先程よりも小さな声だったが、底に意志の通ったしっかりした声だった。
「昨日ね、わたしの家に鎧を来た人達が来たの。わたしはその人達が誰かは知らなかったんだけど、お父さんは知っているらしく、わたしに自分の部屋に戻るように言ったわ」
時折、寄りかかっている建物の裏手から、陽気な酒場の音楽が漏れ聞こえてきた。
「それでね、ドアの隙間から見ていたら、その人達、お金がどうの言った後にお父さんを殴っていたの……」
語尾は僅かに涙が入り混じった声になっていた。
家庭問題人生相談なら教会の牧師にでもすればいい。それなら俺もついでに一緒に行って、どうすればより貧相に見られて、より哀れんでもらえて、施しがより割増しになるかのアドバイスを貰うんだがな……。
お前さんもそうは思わないか?
少し間を置いてから、落ち着いたのを見計らって俺は聞いてみた。
「親父さんは何をしている人なんだ?」
「うちは対岸の先で農業をしているの。お父さんは毎日汗まみれになって畑を耕して、収穫した野菜を売っているだけ」
別段怪しい仕事ではない、至って普通の堅気の商売のようだ。
「家に来た奴らの特徴みたいなものは分からないのか?」
「遠くてよく見えなかったけど、鎧の胸の所に鳥が描かれたプレートが付いてたかもしれない」
「鳥か……」
恐らく俺の予想が正しければ、そのプレートは黒鷲が描かれた紋章で、この辺り一帯を仕切っている"バルディス家"のものだろう。
彼女の家に押し入ってきたのはマーセナリー。つまりバルディスに雇われた傭兵達だ。
どうにもあいつのやり口は、先程から目の前をうろちょろしているネズミにも劣る汚さで好きになれん。いや、好きになれる奴なんかいないだろう。いるとすれば、たんまり貯め込んでいる資産に目をつけて毒殺でも謀っている女詐欺師くらいなもんだ。
しかし、厄介な奴に目をつけられたな……。
一度喰らい付かれたら、搾り取れるところまで吸い尽くされるか、手の届かないところまで逃げるかしないと、あいつの手からは逃れられん。
「親父さんと別の土地へ移り住んだらいいんじゃないか?」
「うん、あの人達の来ない所に行きたい。静かに暮らしたい。けどね……」
そうだ、母親はどうした?
別の土地にだって畑はある。最初は苦労するだろうが、領主に蓄えをせしめられるよりはマシだろう。
家族全員で移り住めばいいじゃないか。
「お袋さんが病気か何かなのか?」
「眠ってるわ。土の中で」
会話に出てこない時点でそんな予感はしていた。
俺には経験が無いが、かみさんを亡くした知り合いの話じゃ、一生共生を誓い合った伴侶が亡くなるってのは、自分の片腕片足、つまり半身が無くなるのと似たようなもんらしい。
そりゃ、片割れが眠っている土地を離れる事なんて簡単には出来ないのだろう。
「すまない……」
「いいの。気にしないで、昔の事だから」
沈んだ俺に気を遣ったのか、彼女の声のトーンが少し上がった。
「スカラブレイはね、お母さんが住みたがっていた場所だってお父さんが言ってたの。よく、家の裏手にある見晴らしのいい丘の上に、三人でピクニックに行ったわ」
遠くを見ているであろう彼女の目にはきっと今、その時の光景が鮮明に映し出されているのだろう。
「この町は好きか?」
「うん、大好き」
「ここの潮風は眠る者に安らぎを与えてくれる。お袋さんも静かに眠っているだろう」
「……うん」
「さ、親父さんが心配している頃だ、もう行きな」
「……」
「大丈夫さ、昨日来たってのならしばらく来ないだろう。もし来たらまたここにおいで」
「……分かった。話を聞いてくれてありがとう、乞食さん」
彼女は立ち上がって、お尻に付いた埃をパンパンと手で叩いて払った。
「そこにもゴミが付いちまってるぞ。こんな場所に座るからだ。動くなよ……っと、ほれ取れた」
俺は彼女の死角になっている上着の肘の所に触ってから、手の中に握りこんでいた糸屑を見せた。
「ありがとう、じゃあね!」
最後にそう言い残した少女の足音は、瞬く間に雑踏の中に消えていった。
◆
後に残された乞食は、考え事をしていた。
「さて、人生相談されちまったがどうしたもんかね。救いが欲しいのはこっちも同じなんだが……」
乞食は、ただ何とは無しに呟いた。
「毎日一生懸命に生きようとあくせく働いても、権力という暴力がその糧を奪い去っちまう。そんな支配階級と下流階層の構図なんてとっくに廃れたもんだと思ってたんだけどな。まだまだそれが分かっていない連中が大勢いるってことだろう。あんただってそう思わないか?」
そう言って突然乞食は、さっきまで少女が座っていた先の闇に顔を向けた。
するとその場所に、涅色【くりいろ】の外套を身に纏った青年がふっと現れ、乞食のいる方に足音をたてずに近寄ってきて、少し間を空けた所の壁に寄りかかった。
「いつから気付いてました?」
「最初からだ。返事くらいしてくれよ。目が見えないってのは、見えていた時以上に見えない物を感じる事が出来るからな」
「恐れ入りました」
――この町には裏稼業としてのギルドがいくつかある。
無表情に突っ立っているそこの青年は、盗賊ギルドに所属している……無粋な言い方だが、はっきり言えば『殺し屋』だ。
そして俺は"乞食ギルド"に所属している。
普段は単なる物乞いなのだが、裏の人間にはもう片方の顔である『情報屋』として利用してもらっているから、盗賊ギルドの連中とも知り合う機会が多い。
そんな中でもこいつは、他の血気盛んな盗賊とは毛並が違った。
「ロード・バルディスですか……」
「ああ、そうらしい。どう思うよ?」
「手を出すべきでは無いと思いますが……」
やはりそう言われるだろうと思ったのだろう。乞食は地面に俯いて続けた。
「俺はな、この町を好きでいてくれてる人間には力になってやりたいんだよ。情報屋如きが何の力になれるのかと笑われるかもしれんが、そういった信念を持っていないと本当に心が貧しくなっちまうよ」
「少女のポケットにこっそり戻した3gpが、その答えですか?」
本業の人間には見つかっていたらしい。
「目がいいな。お前さんがガードだったら俺なんかとっくに捕まってそうだ」
「あそこまでの腕を持った人間はギルドにもそうはいませんよ。光の無い世界でそれをしたってのが更に驚きですがね」
「その光の無い世界でもな、3枚の金貨だけはしっかり見えたよ。箱から拾い上げたら、ずっと握っていたのかほんのり暖かくてな。俺には重くて仕方なかったよ」
辺りの賑わいもとっくに落ち着いて、町は徐々に眠りに向かおうとしていた。
「率直に言おう、これは俺からの依頼だ。ロード・バルディスを殺ってくれ」
「そう言うと思いました。領主間の均衡が崩れるかもしれませんよ?」
「それに関してなら平気だ。バルディスが消えれば、クローデル家がここらの後釜になるだろう。あの貴婦人なら上手い事やってくれるはずだ」
「なるほど。それなら大丈夫そうですね」
情報屋としての見聞を信頼してくれたのか、青年に先見の明があるのか、あっさりと依頼を引き受けてくれた。
「すまない、今回ばかりは手を煩わせる事になる。報酬は……」
「いりませんよ。あの子にマフィンを買ってやって下さい」
「お前さんがそれでいいって言うならそうするが、気紛れにしては珍しいじゃないか」
「私もマフィンが好きなんですよ。では」
涅色の外套の青年は、そう言い残して気配を消した。
――夜の帳が下りたスカラブレイ。
そこには、これから先も潮風が優しく吹き抜け、人々に安らぎを与える事だろう。
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