それは、しとしとと雨の降る夜に起きた出来事だった。
そろそろ日付が変わりそうな時間、店先の灯りを消して、間もなく片付けも終わろうかという所に、立て付けの悪くなった入り口のドアがギィと軋みをあげて開いた。
「すまない、もう店仕舞いなんだ」
そう言って、グラスを仕舞いながら入り口を振り返ったその酒場のマスターは、ドアの前に立っている男を見て驚いた。
「……エドか? エドじゃないか、随分久しぶりだな」
部屋の薄闇の向こうで男の口が僅かに開いたのが見えたが、何を言ったのかは聞こえなかった。
「そんな所に立ってないで、こっちに来て座ったらどうだ?」
洗ったばかりのグラスを一つ取り出し、エドがいつも頼んでいたリキュールを少し注ぐと、入り口の前に立っていた彼はゆっくりとカウンターに近づいてきて、いつも座っていた端っこの椅子に腰を掛けた。
――ミノックとベスパーの中間に建てたこの酒場は、鉱夫達によく利用されている。
それが狙いだったわけでもあるが、道沿いにあって安いというシンプルさが、薄給の鉱夫達には喜ばれているらしい。
エドもそんな鉱夫の内の一人だった。
まだ少年の名残りを残している顔立ちには似合わず、よく働く青年だと耳にした。
テーブル席に置いてある、遊んだままになっていたバックギャモンの駒を片付けながら、店主は背中越しに聞いてみた。
「こんな時間に急にどうしたんだ? いつもはもっと早い時間に来るだろう」
何とはなしに問いかけた声は中空に掻き消え、エドからの返事は返ってこなかった。
確かに、「よく喋る」とは言えない奴だが、無口な奴ではなかった。
仲間の鉱夫と酒場に来てる時も、笑いあっている所を見た。
恐らく、何か話したくない事でもあったのかもしれない。
テーブルも拭き終わり、店主はカウンターの元の場所に戻った。
窓に目をやれば、打ち付けられた雨が銀色の筋を作り、ガラスを伝い落ちていくのが見えた。
「まぁ、雨がやむまではゆっくりしていけ。お前さんをずぶ濡れにはさせんさ」
ふと、エドの顔を見ると、入ってきた時には暗くて気が付かなかったのだが、決して血色が良いとは言えない青白い顔をしていた。
「寒かったのか? 暖炉でもつけてやろうか?」
既に火は消してあったのだが、どうにもあんな顔でカウンターに座られていては、カウンターのこっち側にいる身としてあんまりいい気がしない。
心配して顔を覗き込むと、エドは一点を見つめたまま何やら口をもごもごと動かしていた。
「ん? なんだ?」
注意深く耳を傾けてみるが、何も聞こえてこない。いや、喋っていなかった。
単に口をパクパクさせていただけだった。
「おいおい、俺をからかっているのか? エド」
意味深に口を動かされると、口の動きを読みたくなるのは何故だろうか。
口を、彼と同じ形にしてしばらく考えていると、「アイナ」と繰り返し言っているように見えた。
アイナというのは、この酒場で働いているウェイトレスの事だ。
……そうか、気付かなかった俺はどこか鈍いのかもしれんな。
エドがこの店に通う理由の一つを忘れていたなんてな。
「アイナはいないんだ、少し前に帰ってしまったよ。次来る時は少し早めに来て、アップルパイでも焼いてもらうといい」
――人手に困ってはいなかったのだが、アップルパイを作るのが得意だと押し切られて雇ってしまった彼女。
雇い始めた当時は、夕餉の時間帯になると仕事帰りの鉱夫連中のお陰で汗臭くなる店内に卒倒しそうになっていたっけ。
どこかのお嬢様のような気品漂う雰囲気と、こんな田舎には不釣合いな整った顔立ちは、常日頃から岩に向き合っている彼らには偶像的存在になっていたのか、結構な客寄せになっていた。
いないという言葉に反応したらしく、口の動きがピタリと止まった。
カウンターの上で組んでいたエドの手に目を向けると、何か小さな物が光っていた。
それは、指輪だった。
「そうか、決めたんだな。アイナもきっと喜ぶと思うぞ」
いつからだったか、二人で帰る所を見るようになった。
アイナの仕事が終わると、エドもさっきまでいた席から、一緒に来た仲間を残していなくなっていた。
窓の外を見てみれば、並んで歩いている二人の間に隙間がない事が、どれだけ親密な関係になっていたのかを分からせてくれるに十分な光景が目に飛び込んできた。
「けどな、俺はお前の事が好きだからはっきり言うぞ」
ゴクっと生唾を飲み込む。
「エド、お前はもう死んでいるんだよ!」
――その瞬間、彼の手から指輪が落ちた。悲しげな金属音をたてて。
「お前は一ヶ月前に、少し離れた路上で賊に斬り殺されてしまったんだよ!」
あの日も雨が降っていた。
店の前をバチャバチャと人が慌しく通り過ぎていくのを不思議に思い、ちょうど入ってきた人間に聞いてみた所、若い鉱夫が殺されたのだと聞かされた。
それがエドだったと知ったのは、数日後、いつもエドを連れて一緒に来ていた仲間から教えられてだった。
「そうだよな、これからって時なのに殺されて悔しいよな……。けどな、お前は自分の居るべき場所に帰るんだ。これ以上アイナに涙を流させたくないだろう?」
そう諭すと、彼は申し訳なさそうな顔をした。
「優しい」ということは、時には酷なことにも思えてくる。
彼は席を立ち、足音を立てるまでもなくドアに向かい歩いていき、そのまま消えてしまった。
「すまない……エド」
彼がさっきまでいた席のカウンターには、持ち主のいなくなった指輪だけが残されていた。
それを見ていると、入り口に誰かが入ってきた。
「あ、マスターこんばんは、まだいたんですね。忘れ物しちゃって」
エドが戻ってきたのかと驚いたのだが、店に入ってきたのはアイナだった。
彼女は、カウンターの端に置かれているグラスを見て不思議な顔を向けてきた。
「誰か来てたんですか? 時間になるときっちりお客さんを追い出すマスターにしては珍しいですね」
「あぁ、そうだな」
「どうかしたんですか?」
少し躊躇ったのだが、エドが置いていった指輪を彼女に見せた。
「お前に渡したかったと言っていた。つらいと思うが、受け取ってやってくれないか」
「指輪? 渡したかったって……」
「エドが来てたんだ」
その名前を聞いた瞬間、彼女の目からぽろぽろと涙が零れてきた。
こうなると分かっていたが、エドの気持ちを汲むと、指輪を渡さなければいけないような気がしたのだ。
「……彼は?」
指輪を握り締めて一頻り泣いた彼女は、店内を見回しながら聞いてきた。
「もう行ったよ。未練が無くなったのだろう」
彼女の手の方を見て、そう答えた。
「行っちゃったんですね。私はどうすれば……」
「あいつの事を忘れないでいてやればいいんじゃないか? 死んじまった人間は生きている人間の心の中でなら、まだ生きていけるわけだしな。それが正しい事かは分からないが、俺はそうしようと思う」
「そうですね。今はまだ悲しいという気持ちが強いけれど、いずれはマスターのように吹っ切れるようになりたいです」
「それでいい。少しずつな」
彼女の顔に笑顔が戻ると、入り口のドアが勢いよく開いた。
「おい! 誰かいるのか!?」
ランタンを手に持って入ってきた男は、建物の中を照らしながら見回した。
「どうですか? 誰かいましたか?」
「いや、声が聞こえたはずなんだがな」
男の後に入ってきたのは、このあたりを見回っているガードだ。
「大方、猫でも入り込んだんじゃないんですか?」
「そうかもしれんな。破格の値段で売りに出ていたから飛びついて買ってしまった家だが、安いのには理由があるってわけか」
「まぁ、色々ありましたからね、この辺りは」
「ん? 何か知っているのか?」
「あ、いえ……」
倉庫として使っているのならば、昔ここで強盗殺人があった事など知らない方がいいだろうとガードは思った。
十数人の客と店主と女店員が、雨の降る夜に惨殺された事など。
「では、私は仕事に戻りますね」
「あぁ、わざわざ付き合わせてすまないな」
「いえいえ、では」
ガードを帰し、男も建物を出ようとしたところで、もう一度中を見回した。
以前は酒場として使われていたと分かる正面に置かれたカウンターの端に、グラスが一つ置かれている事に違和感を感じたが、さして気にする事もなく男はそのままドアを閉めた。
既に雨は上がり、夜世界には一面の星の天蓋が広がっていた。
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