ブリテインの東区画のおよそ中心に位置する広場。
ユーの大木の傍にある噴水を囲むように並べられたベンチの一つに、俺はどっかりと腰掛けた。
ふぅと息をつき、雲がゆっくりと流れる空を見上げ目を瞑る。
しきりに耳に届いてくるさわさわという風になびく大木の葉の音が、狩りの欝とした気分からの開放感を一層演出してくれる。
「お待たせ。これが今日のそっちの取り分よ」
癒しに浸っていた俺が目を開けると、銀行から戻った相棒のシェンナが目の前でぴらぴらと小切手をはためかせていた。
受け取った紙に書かれていた数字を見た率直な感想は、大して稼げていないの一言である。
「そう? 日当にしたら結構な稼ぎだと思うけど?」
生きていくってだけなら、この金額でも当分の間は食うに困らない生活を送れるだろうが、欲しい物がある人間にとっちゃ宵越しの金となり得る金額ではない。
「江戸っ子だねぇ、ジョフレは」
けらけらと笑いながらそう言ったシェンナは、こう言っては失礼だが、女だてらに斧を振り回す戦士である。
戦士なんてのは大雑把な生き物かと思いきや、シェンナに関しては細かいというか、一の位まで中途半端に書かれた小切手の数字を見れば解るように、意外ときっちりしている部分がある。
遠慮がちに少しスペースを置いて、同じベンチの反対側にシェンナも腰掛けた。
「そもそもさ、そんなに稼いで何を買うのよ?」
そう、俺には買いたい物があった。
玄関を飛び出し、右足から踏み出した一歩目には左の靴、二歩目には今にも穴の開きそうな右の靴を脱ぎ捨て、三、四、五歩でベージュの焼け付く砂を踏みつけ、六歩目には大海原の一端の海面に飛び込めるというプライベートビーチ付きの家が欲しいのだ。
「そんなん無理無理、いくらすると思ってんのよ。今日と同じ事を百回やっても無理じゃない?」
至極全うな事を言う。どちらかと言えばこの場合、俺の方が戦士として成り立っているのかもしれない。
じゃあ、そんな緻密な計算好きな女戦士さんは、何の為に狩りをしているのか?
「わたし?」
自分に振られるとは思っていなかった質問に、ぴくりと肩を震わせた。
なんだ、考えなしか。
「あるってば。ほ、ほら、腕試し。そう! 自分の腕試しの為に狩りしてるのよ」
咄嗟に思いついたらしき理由を慌てて述べた後、シェンナの顔は熟れたトマトのように赤くなっていった。
その道の人間から竜殺しとあだ名を付けられた者が、本日のメニューであったブラッドエレメンタルを血糊に帰した程度で腕試しとは、殺されたあの竜も泣くんじゃないか。
「あの時はさ、ジョフレのサポートがあったから……」
そういやそうだった。
傍らに置いた使い込んだハープに目をやり、シェンナが自分の背丈の何倍もある竜を地にひれ伏させた時の事を思い出す。
だが、あの時に俺が奏でた沈静の音色は結局効果が出ていなかった事は、今後のシェンナの成長を期待する意味でも黙っていた方がいいのかもしれない。
さて、そろそろ行くか。
「え、もう行っちゃうの?」
シェンナは立ち上がった俺に、名残惜しそうな眼差しを向けてきた。
狩りの後のこの場所での雑談は俺達の嗜みだが、仕方なしにほらっと弦の切れ掛かった愛用のハープを見せた。
「あぁ、そろそろ切れそうだね」
早々に切り上げようとした理由を解ってくれたのか、「またねー」と手を振ってくれた。
心なしかどこか寂しそうな表情は、長年行動を共にしてきた人間にしか解らない微々たるものであった。
◇
大工屋に向かう道すがら、レンガ造りの建物の一角に見慣れぬ男が座っていた。
またどっかの物乞いかと思って通り過ぎようとした矢先、その男に声を掛けられた。
「もし、そこの方?」
足早に進んでいた俺は、歩みの速度が自然と緩まった。
日が落ちかけて、徐々にブリテインの街は所々に夜の賑わいを見せ始めているが、男と俺の周りには他の人間はいなかった。
という事は、俺か。
「ええ、あなたです」
唐突に声を掛けられ不思議そうに首を傾げた俺に、男は真っ直ぐな目を向けいきなり切り出してきた。
「あなたには、何か欲しい物がありますか?」
さっきも似たような事をワンレンの女戦士に聞かれたっけな。
ああ、あるよ。とだけ答えて立ち去ろうとした俺に、返答が戻ってくるとは思っていなかった男が慌てて付け加える。
「それは何ですか?」
何ですかはこっちのセリフだと思うんだがな。
人が欲しがっている物が何であるかを聞き出し、雲を掴むような無謀な夢を嘲笑う事を楽しみにしているなんて、いかにも底辺の人間が考えそうな事じゃないか。
しかし、そんな人間でも俺は無碍には扱わない。世間でお人好しと評判の俺が、お遊びに乗ってやろうじゃないか。
「ほう、自分専用の海を臨む事が出来る家ですか。大きな夢ですね」
ほらな。
薄く微笑んだ男の顔を見て、俺はやはり男のつまらない遊びであった事を確信した。
だが、人を小馬鹿にしたような嫌な雰囲気は一切感じられず、それはただ単に、微笑ましいものを見るかのようだった。
立ち去ろうとした俺に、その男はあろう事かこんな事を言い放ってきた。
「それを差し上げましょう」
は? 差し上げる? 何をだ?
「家ですよ。海を目の前に臨む家ですよ」
あんたが俺の長年の夢であるプライベートビーチ付きの一軒家をくれるって言うのかい?
冗談だろう? いくらすると思っているんだ。
「冗談ではありません、これをどうぞ」
そう言って男は、ポケットから取り出した鍵を俺に渡した。
何これ。『棚からヒールポーション』とかって、どっかの誰かが言ったことわざ通りの事が起こったっていうのか? 嘘だろ?
「真実ですよ。私はここで遺産を分け与えるに値する人間を探していたのです」
成程、金持ちの余興か。納得がいった。
「余興と言うか、私が住んでいた家が丁度あなたの欲しがっている家と条件が合致したからですよ。合っていなければ、私はあなたの思う物乞い扱いのまま黙っていた事でしょう」
何故か思っていた事を見透かされた。気まずい。
しかし、そんな思いとは裏腹に、男は思い出したようにポケットから紙を取り出し、座標らしきものを書いて俺に差し出してきた。
「私の家はこの場所です。ただし……」
ん? 家具は捨てないでくれとか、掃除だけはしっかりしてくれってか?
それなら大丈夫だ。俺がしないでも綺麗好きな女戦士が知り合いにいるからな。
「いえ、これだけは守ってください」
俺の冗談を軽く流し、男はこれが本題であるかのようにこう言った。
“決して後悔はしないで下さい”
後悔? 不動産という大それた有形資産物を貰って後悔する人間がいるのか? まぁ、今の住処に比べて見劣りするようなら後悔するかもな。
座標の書かれた紙を見ていた顔を上げると、男は忽然と目の前からいなくなっていた。
随分と押し付けがましい資産家だななどと思い、俺は当初の目的である大工屋に行く為に、止まっていた歩を進めた。
◇◇
数日後、俺は遺産相続人探しの例の男に与えられた家を訪ねるべく、紙に書かれた座標に足を運んだ。
トリンシックの西。鬱蒼とした緑が生い茂るジャングルを抜けた先に、その家は間違いなくあった。
それは大きくも無く、かと言って小さくも無いが、今住んでいる家よりは住みやすそうな家だった。砂岩好きの俺からすれば外見は満点だ。花丸をやってもいい。
一番の不安だった騙されているかもしれないという点も、貰った鍵で玄関が難なく開いた事で、その可能性は無くなった。
バックパックをまだ家具の残っている家の中に放り込み、服を脱ぎ捨て、夢に描いていたように一歩二歩と靴を脱ぎ捨て海に飛び込む。
俺は、人は夢が叶った時にはこんな奇声をあげるのかと思えるような声を上げ、バチャバチャと水飛沫をあげ海水を堪能した。
そしてしばらくしてから、傾きかけた太陽が今まで照りつけていた砂浜に、大の字になって寝そべった。
――あの日、もし男の声を無視して通り過ぎていたら。
もし、別の道を通って大工屋に向かっていたら――。
身に余る幸運を実際に肌で感じて心に余裕が出てきた俺は、そんなありもしない並列世界の可能性を考えてしまう。
右から左に流れていく雲を見ながら、あの日もベンチに座って雲を見上げていた事を思い出す。
“あぁ、あいつと一緒に来たかったなぁ――”
その日、いつもの「狩りに行こう」というシェンナの誘いを跳ね除けてここに来た俺は、あの男が最後に言った言葉も忘れて、そんな事を一瞬考えてしまった。
これが“後悔”だったと気付いたのは、いつの間にか眠りこけていた俺が目を覚まし、家があった場所に、塀だけになった砂岩の廃墟があったのを見てからの事だった。
◆
「で? 今日は行くんでしょ? 家なき子くん」
やや厳しい口調で俺の失態を突いてくるシェンナ。
件の一件を恐る恐る話してみた後、怒号を散々浴びせられた事はここだけの秘密にしておいて欲しい。
この世界のルールに則って何もかも失ってしまった俺は、地道に稼いで生きていくしか道は残されていないのだ。
「まさか、まだプライベートビーチ付きの家が欲しいなんて言わないわよね?」
ああ、それは束の間だったが体験させてもらったからもういいや。ひとまずは、小さくてもいいから家が欲しいな。
半ば自棄気味に俺が言った言葉に、シェンナは反応した。
「小さいなんて夢の無い事言わないでよ。……どうせならさ、二人で住めるくらいの家を買おうよ」
頬を染め、俺とは目を合わせようとせずにそう言った彼女。
そんな家もいいかもしれないな。
立ち上がりすたすたと先に行ってしまったシェンナを、俺は急いで追いかけた。
そんな二人のやり取りを、遠くから見ている影があった。
『遺産、受け取って頂けたようですね』
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